鳴子
たまには出かけるのをお休みして
今日は1日家でゆっくりしてました
家の中を走り回っていたら
鳴子を見つけました
いつ購入したのかは覚えてないけど
小さい頃から身近にあったことだけは覚えています
よさこいで使われる歌は
子守歌のように聞いてました
以下歌詞です~(たぶんこんな感じ)
よっちょれよ よっちょれよ
よっちょれ よっちょれ よっちょれよ
よっちょれ よっちょれ よっちょれよ
高知の城下へ来てみいや
じんまもばんばもよう踊る
鳴子両手によう踊る よう踊る
土佐の(ヨイヤサノサノサノ)
高知のはりまや橋で(ヨイヤサノサノサノ)
坊さん かんざし買うを見た
よさこい よさこい
(ホイホイ)
田舎 高知は懐かしいですね~
今日は1日家でゆっくりしてました
家の中を走り回っていたら
鳴子を見つけました
いつ購入したのかは覚えてないけど
小さい頃から身近にあったことだけは覚えています
よさこいで使われる歌は
子守歌のように聞いてました
以下歌詞です~(たぶんこんな感じ)
よっちょれよ よっちょれよ
よっちょれ よっちょれ よっちょれよ
よっちょれ よっちょれ よっちょれよ
高知の城下へ来てみいや
じんまもばんばもよう踊る
鳴子両手によう踊る よう踊る
土佐の(ヨイヤサノサノサノ)
高知のはりまや橋で(ヨイヤサノサノサノ)
坊さん かんざし買うを見た
よさこい よさこい
(ホイホイ)
田舎 高知は懐かしいですね~
LEKI製ノルディックウォーキング用ポール(ストック)
JNWA ノルディックフィットネスウォーキング指導者講習会
を受けるために購入した
LEKI製ノルディックウォーキング用ポール(ストック)
小柄な方向けのモデルウォーカー
記録の為に撮影しました
まだ数回だけど結構楽しい
ノルディックウォーキング
近くでやってないかなぁ~
近場の方が長続きするもんねw
を受けるために購入した
LEKI製ノルディックウォーキング用ポール(ストック)
小柄な方向けのモデルウォーカー
記録の為に撮影しました
まだ数回だけど結構楽しい
ノルディックウォーキング
近くでやってないかなぁ~
近場の方が長続きするもんねw
JR京都線 島本駅
島本町立歴史文化資料館(旧麗天館)
の次に訪れたのは大阪府三島郡島本町桜井1-3-39にあります
JR京都線 島本駅
2008年(平成20年)3月15日に開業したばかりの新しい駅です
こちらJR島本駅の入線メロディが
小林亜星作詞・作曲の人間みな兄弟~夜がくるになっています
原曲はサントリーオールドのCMソングで
島本町内にサントリー山崎蒸溜所があることにちなんでだそうですよ
機会があればぜひ行ってみて下さいね
またJR京都線内の中間駅では初の入線メロディ導入だそうです
の次に訪れたのは大阪府三島郡島本町桜井1-3-39にあります
JR京都線 島本駅
2008年(平成20年)3月15日に開業したばかりの新しい駅です
こちらJR島本駅の入線メロディが
小林亜星作詞・作曲の人間みな兄弟~夜がくるになっています
原曲はサントリーオールドのCMソングで
島本町内にサントリー山崎蒸溜所があることにちなんでだそうですよ
機会があればぜひ行ってみて下さいね
またJR京都線内の中間駅では初の入線メロディ導入だそうです
くすりの道修町資料館
神農さん 少彦名神社
の次に訪れたのはお隣
大阪市中央区道修町2-1-8
少彦名神社社務所ビルにあります
くすりの道修町資料館
EVで3Fまで上がって行ってきました
道修町のこれまでの営みや歩みそして未来
道修町と製薬会社
丁稚奉公から別家へ
医薬品と薬事法
などなど薬について色々学べた資料館でした
薬関係でよく名前を聞いたことのある会社ばかりでしたが
いちばん身近なのは
福島区にある塩野義製薬株式会社 さんかなぁ
まぁ 地元ということでw
出たところに模様があったのでとりあえず記念に撮影
資料館とかはやっぱり面白いですね
次は 青山ビル(旧野田源次郎邸) へ
の次に訪れたのはお隣
大阪市中央区道修町2-1-8
少彦名神社社務所ビルにあります
くすりの道修町資料館
EVで3Fまで上がって行ってきました
道修町のこれまでの営みや歩みそして未来
道修町と製薬会社
丁稚奉公から別家へ
医薬品と薬事法
などなど薬について色々学べた資料館でした
薬関係でよく名前を聞いたことのある会社ばかりでしたが
いちばん身近なのは
福島区にある塩野義製薬株式会社 さんかなぁ
まぁ 地元ということでw
出たところに模様があったのでとりあえず記念に撮影
資料館とかはやっぱり面白いですね
次は 青山ビル(旧野田源次郎邸) へ
桜宮公会堂玄関(旧造幣寮鋳造所正面玄関)
泉布観 2F 内部
の次に訪れたのは
泉布観の隣にあります
桜宮公会堂玄関
(旧造幣寮鋳造所正面玄関)
近くに案内板を見つけました
ココにはこう書かれてありました
この公会堂の玄関は 創業当時の造幣寮
(現在国道1号線をへだてた南側にある大蔵省造幣局の前身)
貨幣鋳造所の正面玄関を移したものである
当時わが国には近代工業の姿はみられずわずかに
江戸と長崎に近代文明の芽ばえが見られただけであったが
明治政府は近代国家として貨幣制度の整備を急ぎ
当時の金で95万両という大金を投じてこの桜の宮の地に
近代的な造幣局を建設し明治4年に操業を開始した
この玄関は当時の様式工場貨幣鋳造所の正面に設けられていたもので
今日残っている洋風建築としては 日本で最も古いものの一つで
桁行 2.85m余 梁間15m余 屋根は一重切妻造銅版葺で
昭和10年造幣局改築の際 当時の姿のまま 現在地に移築したものである
昭和31年 重要文化財の指定を受けている
の次に訪れたのは
泉布観の隣にあります
桜宮公会堂玄関
(旧造幣寮鋳造所正面玄関)
近くに案内板を見つけました
ココにはこう書かれてありました
この公会堂の玄関は 創業当時の造幣寮
(現在国道1号線をへだてた南側にある大蔵省造幣局の前身)
貨幣鋳造所の正面玄関を移したものである
当時わが国には近代工業の姿はみられずわずかに
江戸と長崎に近代文明の芽ばえが見られただけであったが
明治政府は近代国家として貨幣制度の整備を急ぎ
当時の金で95万両という大金を投じてこの桜の宮の地に
近代的な造幣局を建設し明治4年に操業を開始した
この玄関は当時の様式工場貨幣鋳造所の正面に設けられていたもので
今日残っている洋風建築としては 日本で最も古いものの一つで
桁行 2.85m余 梁間15m余 屋根は一重切妻造銅版葺で
昭和10年造幣局改築の際 当時の姿のまま 現在地に移築したものである
昭和31年 重要文化財の指定を受けている
泉布観 2F 内部
泉布観 1F 内部
に引き続き
大阪市北区天満橋1-1-1
にあります
泉布観
2F 廊下
お部屋
こちらも 鏡台が大きいです
お部屋
赤じゅうたん?
異国って感じです
ベランダ部分に出てみます
1Fと同様の外柱
ちょっと天井を見てみると
こんな感じ
建物を見ているだけでちょっと幸せな気分になりました
次は桜宮公会堂玄関(旧造幣寮鋳造所正面玄関) へ
に引き続き
大阪市北区天満橋1-1-1
にあります
泉布観
2F 廊下
お部屋
こちらも 鏡台が大きいです
お部屋
赤じゅうたん?
異国って感じです
ベランダ部分に出てみます
1Fと同様の外柱
ちょっと天井を見てみると
こんな感じ
建物を見ているだけでちょっと幸せな気分になりました
次は桜宮公会堂玄関(旧造幣寮鋳造所正面玄関) へ
泉布観 外観
大塩の乱槐跡碑
の次に訪れたのは
大阪市北区天満橋1-1-1 にあります
泉布観
2009年 3月27日~29日 まで 一般公開がありました
重要文化財です
名前を発見
近くに案内板を見つけました
こちらには こう書かれてありました
この建物は 明治4年 造幣局の応接所として建てられたもので
日本でもっとも古い洋風建築の一つである
周囲に石柱で支えられた広縁をめぐらしたこの形式は
コロニアル式建築様式をとりいれており
高温多湿の日本の気候を考えて設計されている
室内には 古典的な照明具 暖炉 化粧鏡などが備えられ
シャンデリアの光源も現在は電灯に切り換えられているが
器具は全部ガラスランプ時代のものである
設計者は英国の建築技師 ウォートルス
泉布の名は貨幣を意味し
明治5年 明治天皇によって名付けられた
創建以来 明治末年までは皇室や外国使節の宿所
休憩所として利用されてきたが
大正6年 宮内庁より大阪市に移管され
昭和31年には重要文化財の指定を受けている
次は泉布観 1F 内部 へ
の次に訪れたのは
大阪市北区天満橋1-1-1 にあります
泉布観
2009年 3月27日~29日 まで 一般公開がありました
重要文化財です
名前を発見
近くに案内板を見つけました
こちらには こう書かれてありました
この建物は 明治4年 造幣局の応接所として建てられたもので
日本でもっとも古い洋風建築の一つである
周囲に石柱で支えられた広縁をめぐらしたこの形式は
コロニアル式建築様式をとりいれており
高温多湿の日本の気候を考えて設計されている
室内には 古典的な照明具 暖炉 化粧鏡などが備えられ
シャンデリアの光源も現在は電灯に切り換えられているが
器具は全部ガラスランプ時代のものである
設計者は英国の建築技師 ウォートルス
泉布の名は貨幣を意味し
明治5年 明治天皇によって名付けられた
創建以来 明治末年までは皇室や外国使節の宿所
休憩所として利用されてきたが
大正6年 宮内庁より大阪市に移管され
昭和31年には重要文化財の指定を受けている
次は泉布観 1F 内部 へ
洗心洞跡
造幣博物館
の次に訪れたのは
大阪市北区天満1-25
造幣局官舎内 にあります
洗心洞跡
近くの案内板にはこう書かれてありました
大塩平八郎中齋の家塾
洗心洞旧蹟
大塩平八郎は 寛政5年(1793年)に大坂大塩家の8代目として
初代からの屋敷であったこの場所で生まれた
初代は六兵衛成一といい
名古屋にある本家の大塩波右衛門義勝の3男であって
大坂町奉行所付きの与力となり 代々その職を継承してきた
平八郎は7歳のとき 父母に死別し 祖父母に育てられ
14歳で早くも与力見習となり出社した
成年に達して後 祖父 政之丞の跡を継いで与力となり
天保元年(1830年) 38歳のとき退職して
養子 格之助にその職を譲るまで 20数年間与力の職にあり
清廉潔白かつ学識ある名与力として多くの功績を挙げ
その名声は天下に聞こえた
平八郎は 青年時代に3度び人生観の転換があり
遂に王陽明の学問に心酔して
24・5歳頃から自邸で儒学の講義をしていたが 文
政8年(1825年)学塾を開き 「洗心洞」と名付けた
洗心とは 易経繋辞伝に
「聖人此レ似テ心ヲ洗ヒ 退イテ密ニ蔵ス」とある文から採り
洞というは 塾舎の意味である
屋敷内に講堂と塾舎を設け 塾生を寄宿させ
通学生と共に日夜文武両道を教授した
その門弟は40~50人に達したという
学風は非常に厳格で子弟の名分を正し
知行合一の実学を重んじた
号を中齋と称し
著者に「洗心洞箚記」の外数種の名著があり
その他の詩文も名作である
天保8年(1837年)前年よりの飢饉によって
難民が多くでたことを見るに見かねて
一身を犠牲にして救民運動と政治覚醒運動を起こしたが
事遂に成らず
同年3月27日 靭 (大阪市西区)において格之助と共に自刃した
行年45歳であった
附近には砲弾により裂かれたが残っている
この所は 大塩家代々の屋敷跡があり
その家塾「洗心洞」の旧蹟である
今ここに大阪市が記念碑を建てられるに当たり
その由来を略記してこれを顕彰するものである
なお 大塩平八郎父子の墓は
大阪市北区末広町 成正寺にある
次は大塩の乱槐跡碑 へ
大阪市北区天満1-25
造幣局官舎内 にあります
洗心洞跡
近くの案内板にはこう書かれてありました
大塩平八郎中齋の家塾
洗心洞旧蹟
大塩平八郎は 寛政5年(1793年)に大坂大塩家の8代目として
初代からの屋敷であったこの場所で生まれた
初代は六兵衛成一といい
名古屋にある本家の大塩波右衛門義勝の3男であって
大坂町奉行所付きの与力となり 代々その職を継承してきた
平八郎は7歳のとき 父母に死別し 祖父母に育てられ
14歳で早くも与力見習となり出社した
成年に達して後 祖父 政之丞の跡を継いで与力となり
天保元年(1830年) 38歳のとき退職して
養子 格之助にその職を譲るまで 20数年間与力の職にあり
清廉潔白かつ学識ある名与力として多くの功績を挙げ
その名声は天下に聞こえた
平八郎は 青年時代に3度び人生観の転換があり
遂に王陽明の学問に心酔して
24・5歳頃から自邸で儒学の講義をしていたが 文
政8年(1825年)学塾を開き 「洗心洞」と名付けた
洗心とは 易経繋辞伝に
「聖人此レ似テ心ヲ洗ヒ 退イテ密ニ蔵ス」とある文から採り
洞というは 塾舎の意味である
屋敷内に講堂と塾舎を設け 塾生を寄宿させ
通学生と共に日夜文武両道を教授した
その門弟は40~50人に達したという
学風は非常に厳格で子弟の名分を正し
知行合一の実学を重んじた
号を中齋と称し
著者に「洗心洞箚記」の外数種の名著があり
その他の詩文も名作である
天保8年(1837年)前年よりの飢饉によって
難民が多くでたことを見るに見かねて
一身を犠牲にして救民運動と政治覚醒運動を起こしたが
事遂に成らず
同年3月27日 靭 (大阪市西区)において格之助と共に自刃した
行年45歳であった
附近には砲弾により裂かれたが残っている
この所は 大塩家代々の屋敷跡があり
その家塾「洗心洞」の旧蹟である
今ここに大阪市が記念碑を建てられるに当たり
その由来を略記してこれを顕彰するものである
なお 大塩平八郎父子の墓は
大阪市北区末広町 成正寺にある
次は大塩の乱槐跡碑 へ















