造幣博物館
大阪市立藤田邸跡公園
の次に訪れたのは
大阪市北区天満1-1-79にあります
独立行政法人 造幣局
ではなくて お隣
本局構内にあります
造幣博物館
色々貴重な展示がありました
左:天正菱大判
右:天正長大判
左:菊桐金錠
右:竹流金
などなど 面白かったです~
一度は行ってみて下さいね
次は洗心洞跡 へ
の次に訪れたのは
大阪市北区天満1-1-79にあります
独立行政法人 造幣局
ではなくて お隣
本局構内にあります
造幣博物館
色々貴重な展示がありました
左:天正菱大判
右:天正長大判
左:菊桐金錠
右:竹流金
などなど 面白かったです~
一度は行ってみて下さいね
次は洗心洞跡 へ
大阪市立藤田邸跡公園
皇紀2600年記念碑
の次に訪れたのは
大阪市都島区網島町10
にあります
大阪市立藤田邸跡公園
入口から見る中の様子はこんな感じ
門もすごい感じです
入っていくと
色とりどりの花
花
花
こんなところでのんびり出来ると良いですよね
進んでいくと
こんなところもありました
次は造幣博物館 へ
の次に訪れたのは
大阪市都島区網島町10
にあります
大阪市立藤田邸跡公園
入口から見る中の様子はこんな感じ
門もすごい感じです
入っていくと
色とりどりの花
花
花
こんなところでのんびり出来ると良いですよね
進んでいくと
こんなところもありました
次は造幣博物館 へ
□ 都島区 旧町名継承碑 野田町
のだばし址碑
に引き続き
大阪市都島区片町2-9-39
あたりにあります
都島区 旧町名継承碑 野田町

町名は万治2年(1659年)
市郡両方に属した東成郡野田村のうち
当町域は街区を形成して大坂三郷の中に組み入れられ
町となったことに由来する
古名の坂口町は大坂口の町であることの略称と考えられ
野田町と改称したのは 東成郡野田村との関係が深かったことによる
現在の片町2丁目 新しい東野田町1~2丁目の各一部だそうですよ
より大きな地図で まっつんの旧町名継承碑訪問マップ を表示
次は皇紀2600年記念碑へ
に引き続き
大阪市都島区片町2-9-39
あたりにあります
都島区 旧町名継承碑 野田町

町名は万治2年(1659年)
市郡両方に属した東成郡野田村のうち
当町域は街区を形成して大坂三郷の中に組み入れられ
町となったことに由来する
古名の坂口町は大坂口の町であることの略称と考えられ
野田町と改称したのは 東成郡野田村との関係が深かったことによる
現在の片町2丁目 新しい東野田町1~2丁目の各一部だそうですよ
より大きな地図で まっつんの旧町名継承碑訪問マップ を表示
次は皇紀2600年記念碑へ
のだばし址碑
大阪城 青屋門
の次に訪れたのは
大阪市都島区片町2-9-39あたりにあります
のだばし址碑
かつてこの付近には、鯰江川という川があり
その川に架けられていた橋がのだばし
京街道にあたることから重要視されていたそうです
江戸時代、これより下流にあった備前島橋と
大阪城の北の玄関口にあり
京街道の起点でもあった京橋とともに公儀橋に指定
昭和時代初期、鯰江川が埋め立てられたと同時に橋は撤去
ということです
次は都島区 旧町名継承碑 野田町 へ
の次に訪れたのは
大阪市都島区片町2-9-39あたりにあります
のだばし址碑
かつてこの付近には、鯰江川という川があり
その川に架けられていた橋がのだばし
京街道にあたることから重要視されていたそうです
江戸時代、これより下流にあった備前島橋と
大阪城の北の玄関口にあり
京街道の起点でもあった京橋とともに公儀橋に指定
昭和時代初期、鯰江川が埋め立てられたと同時に橋は撤去
ということです
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浦江聖天(了徳院)の藤棚
福島区の花 野田ふじウォッチングスタンプラリー2009
で浦江聖天(了徳院)さんに来た時
藤棚はまったくと言って良いほど野田ふじが咲いていませんでした
住職さんのお話によると
今年はお休みさせていただいているみたいですね~とのこと・・・
ちょっと残念な気もしましたが楽しくお話を聞かせていただきました
近くに由緒板があったのでそちらを書きますね
福島区花 野田ふじ
600年の昔
2代将軍 足利義詮は この地に来遊し
紫の藤を眺め あまりの見事さに次の句を詠んだ
いにしえの ゆかりを今もむらさきの 藤なみかかる 野田の玉川
のちに太閤秀吉などが藤見の宴を催し
歌人 俳人など数々の詩歌をのこし
吉野の桜か 野田の藤
とうたわれる程の名所となった
花の形良く 紫の色 あくまで上品で
最盛期には1mをこす花房が咲き誇ると記されており
その往時をしのぶよすがとして この由緒板をここに贈る
次は 浦江聖天 芭蕉杜若句碑 へ
で浦江聖天(了徳院)さんに来た時
藤棚はまったくと言って良いほど野田ふじが咲いていませんでした
住職さんのお話によると
今年はお休みさせていただいているみたいですね~とのこと・・・
ちょっと残念な気もしましたが楽しくお話を聞かせていただきました
近くに由緒板があったのでそちらを書きますね
福島区花 野田ふじ
600年の昔
2代将軍 足利義詮は この地に来遊し
紫の藤を眺め あまりの見事さに次の句を詠んだ
いにしえの ゆかりを今もむらさきの 藤なみかかる 野田の玉川
のちに太閤秀吉などが藤見の宴を催し
歌人 俳人など数々の詩歌をのこし
吉野の桜か 野田の藤
とうたわれる程の名所となった
花の形良く 紫の色 あくまで上品で
最盛期には1mをこす花房が咲き誇ると記されており
その往時をしのぶよすがとして この由緒板をここに贈る
次は 浦江聖天 芭蕉杜若句碑 へ
大阪城 内堀
大阪城 京橋口枡形の巨石
の次に訪れたのは
大阪城 内堀
こちらでも案内板を見つけました
案内板にはこう書かれてありました
本丸を取り囲む堀で 南側を空堀とするほかは水堀となっている
寛永元年(1624年)開始の徳川幕府による 大阪城再築第2期工事
により 豊臣時代の本丸に盛り土をほどこして石垣が築造された
僕府の命令によって動員された大名は 豊前小倉藩細川家
加賀藩前田家 因幡鳥取藩池田家 筑前福岡藩黒田家をはじめとする
59家で 総延長は約2.7キロメートル 東側石垣の高さは
水面から約24メートルに達する
本丸内には堀に面する石垣の角を中心に3層の櫓が11棟
2層の櫓が2棟そびえていたが 明治維新の大火により 全て消失した
次は大阪城 青屋門 へ
の次に訪れたのは
大阪城 内堀
こちらでも案内板を見つけました
案内板にはこう書かれてありました
本丸を取り囲む堀で 南側を空堀とするほかは水堀となっている
寛永元年(1624年)開始の徳川幕府による 大阪城再築第2期工事
により 豊臣時代の本丸に盛り土をほどこして石垣が築造された
僕府の命令によって動員された大名は 豊前小倉藩細川家
加賀藩前田家 因幡鳥取藩池田家 筑前福岡藩黒田家をはじめとする
59家で 総延長は約2.7キロメートル 東側石垣の高さは
水面から約24メートルに達する
本丸内には堀に面する石垣の角を中心に3層の櫓が11棟
2層の櫓が2棟そびえていたが 明治維新の大火により 全て消失した
次は大阪城 青屋門 へ
大阪城 京橋口
北区 旧町名継承碑 新川崎町
の次に訪れたのは
またまた大阪城
京橋口
案内板にはこう書かれてありました
大阪城の西北の出入口
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」
が架けられていることから「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた
戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り
枡形には大手口と同様に多門櫓があって
大阪城の名所となっていたが
昭和20年(1945年)の空襲によって全焼した
次は大阪城 京橋口枡形の巨石 へ
の次に訪れたのは
またまた大阪城
京橋口
案内板にはこう書かれてありました
大阪城の西北の出入口
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」
が架けられていることから「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた
戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り
枡形には大手口と同様に多門櫓があって
大阪城の名所となっていたが
昭和20年(1945年)の空襲によって全焼した
次は大阪城 京橋口枡形の巨石 へ




