E-smile まっつんの日常 -1843ページ目

造幣博物館

大阪市立藤田邸跡公園
の次に訪れたのは
大阪市北区天満1-1-79にあります
独立行政法人 造幣局

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

ではなくて お隣

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

本局構内にあります
造幣博物館

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

色々貴重な展示がありました

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

左:天正菱大判
右:天正長大判

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

左:菊桐金錠
右:竹流金

などなど 面白かったです~
一度は行ってみて下さいね

次は洗心洞跡

大阪市立藤田邸跡公園

皇紀2600年記念碑
の次に訪れたのは
大阪市都島区網島町10
にあります
大阪市立藤田邸跡公園

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

入口から見る中の様子はこんな感じ

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

門もすごい感じです

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

入っていくと


E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

色とりどりの花

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常



E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常



E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

こんなところでのんびり出来ると良いですよね

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

進んでいくと
こんなところもありました

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

次は造幣博物館

皇紀2600年記念碑

都島区 旧町名継承碑 野田町 に引き続き
大阪市都島区片町2-9-39あたりにあります
皇紀2600年記念碑

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

沢山みますね~
どんどん探してみよう

次は 大阪市立藤田邸跡公園

□ 都島区 旧町名継承碑 野田町

のだばし址碑
に引き続き
大阪市都島区片町2-9-39
あたりにあります
都島区 旧町名継承碑 野田町

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

町名は万治2年(1659年)
市郡両方に属した東成郡野田村のうち
当町域は街区を形成して大坂三郷の中に組み入れられ
町となったことに由来する
古名の坂口町は大坂口の町であることの略称と考えられ
野田町と改称したのは 東成郡野田村との関係が深かったことによる

現在の片町2丁目 新しい東野田町1~2丁目の各一部だそうですよ


より大きな地図で まっつんの旧町名継承碑訪問マップ を表示

次は皇紀2600年記念碑

のだばし址碑

大阪城 青屋門
の次に訪れたのは
大阪市都島区片町2-9-39あたりにあります
のだばし址碑

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

かつてこの付近には、鯰江川という川があり
その川に架けられていた橋がのだばし
京街道にあたることから重要視されていたそうです
江戸時代、これより下流にあった備前島橋と
大阪城の北の玄関口にあり
京街道の起点でもあった京橋とともに公儀橋に指定
昭和時代初期、鯰江川が埋め立てられたと同時に橋は撤去
ということです

次は都島区 旧町名継承碑 野田町

浦江聖天(了徳院)の藤棚

福島区の花 野田ふじウォッチングスタンプラリー2009
で浦江聖天(了徳院)さんに来た時
藤棚はまったくと言って良いほど野田ふじが咲いていませんでした

住職さんのお話によると
今年はお休みさせていただいているみたいですね~とのこと・・・

ちょっと残念な気もしましたが楽しくお話を聞かせていただきました

E-smile まっつんの日常

近くに由緒板があったのでそちらを書きますね

福島区花 野田ふじ

600年の昔
2代将軍 足利義詮は この地に来遊し
紫の藤を眺め あまりの見事さに次の句を詠んだ

いにしえの ゆかりを今もむらさきの 藤なみかかる 野田の玉川

のちに太閤秀吉などが藤見の宴を催し
歌人 俳人など数々の詩歌をのこし

吉野の桜か 野田の藤

とうたわれる程の名所となった

花の形良く 紫の色 あくまで上品で
最盛期には1mをこす花房が咲き誇ると記されており
その往時をしのぶよすがとして この由緒板をここに贈る


E-smile まっつんの日常

次は 浦江聖天 芭蕉杜若句碑

大阪城 青屋門

大阪城 内堀
の次に訪れたのは
大阪城 青屋門


E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

こちらでも 案内板発見です

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

ココにはこう書かれてありました

大阪城の非常口とも言うべき門で
徳川時代の元和6年(1620年)頃創建され
算盤橋と称する引橋(押出し 引入れ自在の装置)
が架かっていた
この門は 昭和20年(1945年)8月に大空襲の被害にあい
大破したが 昭和45年(1970年)に大阪市が残材をもって
現状のものに復元した
青屋門の名称の由来は大坂本願寺時代
この門外付近に青屋町があったことによるものと
推定されている

次は のだばし址碑

大阪城 内堀

大阪城 京橋口枡形の巨石
の次に訪れたのは
大阪城 内堀

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

こちらでも案内板を見つけました


E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

案内板にはこう書かれてありました

本丸を取り囲む堀で 南側を空堀とするほかは水堀となっている
寛永元年(1624年)開始の徳川幕府による 大阪城再築第2期工事
により 豊臣時代の本丸に盛り土をほどこして石垣が築造された
僕府の命令によって動員された大名は 豊前小倉藩細川家
加賀藩前田家 因幡鳥取藩池田家 筑前福岡藩黒田家をはじめとする
59家で 総延長は約2.7キロメートル 東側石垣の高さは
水面から約24メートルに達する
本丸内には堀に面する石垣の角を中心に3層の櫓が11棟
2層の櫓が2棟そびえていたが 明治維新の大火により 全て消失した

次は大阪城 青屋門

大阪城 京橋口枡形の巨石

大阪城 京橋口
の次に訪れたのは
大阪城 京橋口枡形の巨石

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

大きいですね
案内板にはこう書かれてありました

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

京橋口枡形の内 京橋口を入って正面に見えるのが
表面積が畳約33畳敷(54.17平方メートル)にもなる
城内第2の巨石「肥後石」である
築城の名手 加藤肥後守清正が運んできたと
伝えられてきたが 実際は徳川幕府による
大阪城再築時に この区域の石垣を担当した
備前岡山藩主 池田 忠雄によって運ばれた
肥後石の左手が京橋口2番石で
表面積が 畳22畳敷(36.00平方メートル)の
城内第7位の巨石である

次は 大阪城 内堀

大阪城 京橋口

北区 旧町名継承碑 新川崎町
の次に訪れたのは
またまた大阪城

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

京橋口

E-smile 大阪・街・遊歩人 まっつんの日常

案内板にはこう書かれてありました

大阪城の西北の出入口
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」
が架けられていることから「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた
戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り
枡形には大手口と同様に多門櫓があって
大阪城の名所となっていたが
昭和20年(1945年)の空襲によって全焼した

次は大阪城 京橋口枡形の巨石