E-smile まっつんの日常 -1837ページ目

靫海産物市場跡碑

うつぼ楠永神社 の後に訪れたのはお隣
大阪市西区靱本町2-1にある靫海産物市場跡碑

E-smile まっつんの日常

神社だけで見落としそうになったけど~
碑を探すアンテナが発達してきたのかなぁw

E-smile まっつんの日常

案内板が隣にありました
ココに書かれていたことは
江戸時代 この地には 干物や塩魚 鰹節など
生魚以外の海産物を打ち回する市場がありました
豊臣時代には 海産物の市場はひとつで
今の北浜あたりにありましたが
江戸時代のはじめ 元和4年(1618年)には
生魚と干物などを扱う市場に分かれて生魚の市場が本町のあたりに移りました
元和8年(1622年)には 干物などを扱う市場も ここ靫の地に移ってきました
寛永元年(1624年)には海部堀川という水路が開かれました
その時に人工的につくられた永代浜が
荷あげ用の岸として使われるようになると
取引の量も増えて市場も広がり江戸時代を通して栄えました

との事です
本当に大阪は水に川に囲まれた都市なんですね

次は大阪 薩摩藩中屋敷跡碑

うつぼ楠永神社

西区 旧町名継承碑 阿波座通1~3丁目
の次に訪れたのは靱公園内
大阪市西区靱本町2-1にある
うつぼ楠永神社

E-smile まっつんの日常

神社東側を撮影しました

元は「御霊神社」が現在地に遷宮する前のお宮であったとされているそうですよ
公園に神社ってよくありますね~
公園ウォッチャーにもなりそうです・・・

次は靫海産物市場跡碑

□ 西区 旧町名継承碑 阿波座通1~3丁目

明治小学校旧校舎跡碑
の後に訪れたのは
大阪市西区西本町2-2-2
なにわ筋中央ビルの前にある
西区 旧町名継承碑 阿波座通1~3丁目

E-smile まっつんの日常

町名は町域の北側を流れていた阿波堀川(阿波座堀川)
に沿っていたことに由来するそうです

西本町1丁目~2丁目の各一部だそうですよ


より大きな地図で まっつんの旧町名継承碑訪問マップ を表示

次はうつぼ楠永神社

Yahoo! 究極の選択で分かる肉食女と草食男診断

yahooを見ていたら見つけたのでやってみました
Yahoo!パートナー 究極の選択で分かる肉食女と草食男診断
あなたの肉食度・草食度は何%?
http://event.partner.yahoo.co.jp/love_sousyoku/

E-smile まっつんの日常

診断結果 草食度 60%

あまり恋愛にガツガツしていないアナタは、草食度もほどほどと言えそう
適度な落ち着きと安定感があり、「いい人」のポジションはすぐに確保できます
女性はアナタを男性として意識している部分もあるので、
お互いに恋愛感情は生まれやすいのに、なぜか交際となるといま一歩
変なところで慎重になり、行動力が足りないことが足踏みする原因かもしれません
もう少し積極的になって、気持ちをアピールしていくと良いでしょう

肉食度別 恋愛攻略法

あなたはどの肉食女にアプローチする?
各肉食度に近いと思われる女性のプロフィールを表示します。


肉食度 100%の女性の攻略法

強さをアピールしてもムダなので、かわいがってあげたいと思わせるような
母性本能をくすぐる男の弱さの部分をアピールすると良いかも
押しを感じたら、そのまま乗るのが一番!


肉食度 60%の女性の攻略法

「褒める」ことがポイント
ファッションなどの外見から、内面の性格まで、
相手をよく知ったうえで、どれほど大事な存在と思っているかを
アピールすることに尽きるでしょう


肉食度 20%の女性の攻略法

「男性への警戒心を解いてあげることが先決
急に距離を縮めようとせず、まずは恋したい気持ちにさせる状況作りが大事です
その後友情から愛情へと進展させていくのがベスト!


結婚を考えている女性の攻略法

「まずは外見と性格どちらにもひかれたとアピールすることが大切です
また、ちょっとしたワガママも笑って受け入れる包容力の大きさを示すことがポイントと言えるでしょう。


さぁ どうなのでしょう? この結果

GW何してた?

GW何した? ブログネタ:GW何した? 参加中
印象に残ってるのは
4月29日のATCあぽろん祭
5月2日の大阪旅∞
5月3日のとんぼりワッショイ
5月5日の赤目48滝ですね

まだ日記が書ききれてない状況ですが記憶にも記録にも残っているので大丈夫です~

楽しい事はみんなで分けあえると良いですね

明治小学校旧校舎跡碑

大阪商業講習所跡
の後に訪れたのは
大阪市西区阿波座2-1-11にあります
NTT西日本阿波座ビルの
大阪市立明治小学校側にある
明治小学校旧校舎跡碑

E-smile まっつんの日常

現校舎はこの校舎の存在する頃は運動場だったそうです

地域には1872年、西大組第八区阿波堀小学校と西大組第十区広教小学校が創立した
翌1873年には西大組第六区靱東小学校、
西大組第七区靱西小学校、
西大組第九区阿波座(のち安喜良)小学校が創立した
1878年には靱東・靱西の両校が合併して靱小学校となった
1884年には阿波堀・安喜良の両校が合併して明治小学校となった
明治・靱・広教の3小学校の体制は、太平洋戦争中まで続いた3校とも
1889年に尋常小学校となり、また1921年には高等科が併設され、
1941年には国民学校令により国民学校となった
大阪市では1940年代、当時深刻化していた中等学校の入試難を緩和するとして、
市立の中等学校を増設することにした
この際増設費用を節約するため、既存の国民学校を近隣校に統合させる形で廃止し、
空いた校舎を中等学校へと転用することにした
そのため靱国民学校は1942年、東江国民学校
(1943年西船場国民学校に改称、現在の大阪市立西船場小学校)
に統合される形で廃校となった
靱国民学校校舎を活用して、1942年に靱商業学校
(1944年戦時転換により靱工業学校)が発足した
しかし靱商業学校は1946年、大阪市立扇町商業高等学校に統合されている
靱小学校跡地は現在の靱公園南側のマンションにあたる
靱小学校跡は戦後、大阪商科大学および大阪市立大学の仮校舎、
大阪市立盲学校、大阪市立自然史博物館や
大阪市教育研究所などとして使用されたのち、マンションとなっている
太平洋戦争の戦災により、終戦直後の1946年に
明治国民学校・広教国民学校は休校となり、
西船場国民学校(西船場小学校)に統合された
広教小学校跡地は引き揚げ者用住宅や
大阪市中央児童相談所として使用されたのち、
阿波座センタービルとなった
地域の復興により、戦前の明治・靱・広教の三校区をあわせる形で、
かつての明治小学校敷地に大阪市立明治小学校として復興開校した

沿革を調べてみると統合の多いこと 多いこと
歴史のある小学校だったのですね
次は西区 旧町名継承碑 阿波座通1~3丁目

大阪商業講習所跡

阿波座南公園 ビオトープ
の後に訪れたのは同じく
大阪市西区立売堀2-2-17の
阿波座南公園にあります
大阪商業講習所跡

E-smile まっつんの日常

緑が生い茂っていたので綺麗だなぁ~と思って
ぐるりと公園を一周していたら明治会館の隣で見つけました

日本経済の中心地大阪が近代化からとり残され、
従前の繁栄を将来に維持する事が出来ないこと
商業学校が一つもないことを残念に思っていた
青年新聞記者加藤政之助は、門田三郎兵衛、五代友厚らとはかり、
商業上の改良・進歩をはかるため、商業教育機関設立の必要を感じ、その実現に努力を重ねた
ようやく明治13年、鴻池・住友・藤田ら豪商の援助をうけ、
東京に次いで 2番目の商法学校として
立売堀にあった町会所を改装して発足した
翌明治14年には大阪府の管理となったが、経費は有志の寄付によって支弁していた
ちょうど文明開化の気運が高まっていたときでもあり人気を呼び、
学生が多数押し寄せ、床の根太を踏み破りかねない程であったという
教授内容は実用面重視であり、その経営は門田三郎兵衛に負うところが大きかった
当時の新聞はこの状況を活写し、今後の盛大は今から思いやられると報じている
1889年(明治22年)に大阪市制の発足に伴い「市立大阪商業学校」と改称
さらに「市立大阪高等商業学校」「大阪商科大学」(日本最初の市立大学)を経て,
1949年(昭和24年). 大阪市立都島工業専門学校・大阪市立女子専門学校と統合して
新制大学「大阪市立大学」となった

E-smile まっつんの日常

ここに書かれていたことは

大阪商業講習所は,
商業の町大阪に商業学校がなかったことから,
商業教育機関の必要を感じた五代友厚 らによって
明治13年この地に開設された
この講習所は, 翌明治14年には大阪府の管理となったが,
のち市立大阪高等商業学校・大阪商科大学・大阪市立大学へと発展した

次は明治小学校旧校舎跡碑

阿波座南公園 ビオトープ

百田宗治詩碑 何もない庭
の次に訪れたのは
大阪市西区立売堀2-2-17にあります
阿波座南公園

緑の生い茂るこの公園で ビオトープと言うモノを見つけました

E-smile まっつんの日常

ビオトープとは生物の住息環境を意味する生物学の用語であるが、
ドイツで生まれた概念であり、ドイツ連邦自然保護局では
ビオトープを有機的に結びついた生物群
すなわち生物社会(一定の組み合わせの種によって構成される生物群集)の
生息空間と位置づけている
別の表現をするならば「周辺地域から明確に区分できる性質を持った生息環境の地理的最小単位」であり、
生態系とはこの点で区別される
つまり、ビオトープ(環境)とその中で生息する生物群集(中身)によって、
生態系は構成されていると言うこともできる
日本においても自治体が行う事業に「ビオトープ」という語を用いる場合には
こういった発想が一般に援用されている
日本においては、家庭内で構築する「ビオトープ」を指す用法も多く見られる
この場合のビオトープは、植物や小魚から生まれる老廃物などの物質循環を
おおよそその飼育環境内で成立させる事を目的とすることからつけられた名称である
例えば睡蓮を鉢で育てる場合に
それに伴う水の汚れをメダカ等小魚を共生させる事で防ぎ、
小魚の食べ残しや死骸などをヤマトヌマエビ・ミナミヌマエビ等を住まわせる事で
処理するといった環境である
構築の容易さから水をためた容器に植物や魚類などを配した飼育環境をよぶことが多い
これがさらに転じて、庭に水草栽培セットを持ち出すものをビオトープという例が出てきた
園芸店などには、ビオトープセットと称して単なる水草栽培を意味する場合もあり、
必ずしも物質循環や生態系の安定性を意図しないものも見られる

調べてみたけど難しいので 公園の案内板を読んでみる

E-smile まっつんの日常

ドイツ語で 生物 bio と場所 toppe を示す造語
動物や植物が恒久的に生活できるように
造成または復元された小規模な生息空間
公園の造成・河川の整備の計画などに取り入れられている

とのこと
阿波座南公園のビオトープ
面積 約500㎡
池面積 60㎡
流れ全長 約25m 幅30~100cm
公園面積 5171㎡

E-smile まっつんの日常

こちらは地元の明治連合振興町会を中心に
地域の団体や個人・大阪市立 明治小学校と行政が
協働でつくりあげたビオトープで
平成15年6月から みんなのわくわく公園づくり事業 の
ワークショップの中で ビオトープの計画案を作成
それぞれの作業部会に阿波座南公園ビオトープクラブを始め
地域全体が関わり 計画から施工まで地域みんなの
手づくりで出来たビオトープだそうです
平成16年4月4日 ビオトープ誕生を祝う集いが盛大に開催

こういうものが地域で公園にあったら良いよね
育っていく楽しさを体感できるから
ちょっとした 安らぎの場ですね

次は 大阪商業講習所跡

百田宗治詩碑 何もない庭

株式会社大阪屋(旧新町演舞場)
の後に訪れたのは
大阪市西区新町1-15にあります
新町北公園

E-smile まっつんの日常

夜桜以来ですね
あの時撮れなかった 
百田宗治さん詩の碑 何もない庭

E-smile まっつんの日常

何もない庭

日がかげれば
何もない庭はさびしい

日さへ照ってゐれば
万朶の花の咲きにほふ心地がする

百田宗治

E-smile まっつんの日常

1893年(明治26年) 大阪市西区に生まれる
新町橋近くで多感な少年時代を過ごした
代表作の1つ 何もない庭 はこの詩人の生涯の頂点をなす
澄んだ心境を歌ったもの 

だそうです

どんなひとなのかなぁ~

1911年ごろより詩を書き始め、
1915年に個人雑誌『表現』を発行
翌1916年に詩集『一人と全体』を発表
詩の傾向としては人道主義的・民主主義的傾向で、
1918年に創刊された『民衆』を契機として
民衆詩派の一員として数えられるようになる
その後『椎の木』あたりからは
モダニズムを取り入れた俳句系の詩風へ変化し、
1932年ごろより児童詩・作文教育に携わるようになる

次は 阿波座南公園 ビオトープ

株式会社大阪屋(旧新町演舞場)

角藤定憲改良演劇創始之地碑
の次に訪れたのはお隣
大阪市西区新町2-5-5にあります
株式会社大阪屋(旧新町演舞場)

E-smile まっつんの日常

新町は江戸の吉原、京都の島原と並ぶ3大遊郭として知られ
浪華文化を語る上で欠かせない花街・新町遊郭があった
2代目 新町演舞場は 大正11年(1922年)
新時代の芸妓達の技芸向上のため歌舞練場だったそうです

当時一流の片岡設計事務所所属で
国会議事堂設計コンペに第2等当選した吉木久吉の設計
竹中工務店の施工(主任・関口勝五郎)で完成した

演舞場としての役目を終えた後は、戦中は日配が建物を使用し、
昭和24年(1949年)には「日配」から独立した大阪屋の本社ビルとなりました
昭和35年(1960年)に東側に4階建ての事務所棟、
昭和46年(1971年)には演舞場のホールが取り壊されて6階建ての新社屋が建てられた為、
現在残るのは正面玄関だった一部分のみです
演舞場だった頃の写真を見てみると、
屋上の縁の部分には飾り壺のような感じで華やかな照明器具が取り付けられ、
外壁は全体的に白だったように見えます

E-smile まっつんの日常

こういう建物が残っているのは本当に良いですね

次は 百田宗治詩碑 何もない庭