天満宮道標
井戸用ポンプ
を後にして老松通りを進みます
ギャラリーや古美術商があってこのあたりは結構好きです
大阪市北区西天満4-12-15
重光ビルディング前あたりに
天満宮道標があります
この道しるべは 明治36年3月 梅田停車場(大阪駅)と
大江橋の間に梅田新道が出来て 天満宮参詣道案内の為
ここより西100m 今の御堂筋角に建てられたものです
昭和45年 新御堂筋の開通なので 周辺の環境が著しく
変わったので 建立当時の主旨に則り 参詣者の便宜の為
昭和 57年9月 この地に移しました
と描かれてありました
次はお初天神 御井社・祓戸社 へ
ギャラリーや古美術商があってこのあたりは結構好きです
大阪市北区西天満4-12-15
重光ビルディング前あたりに
天満宮道標があります
この道しるべは 明治36年3月 梅田停車場(大阪駅)と
大江橋の間に梅田新道が出来て 天満宮参詣道案内の為
ここより西100m 今の御堂筋角に建てられたものです
昭和45年 新御堂筋の開通なので 周辺の環境が著しく
変わったので 建立当時の主旨に則り 参詣者の便宜の為
昭和 57年9月 この地に移しました
と描かれてありました
次はお初天神 御井社・祓戸社 へ
大江ビルヂング
MID堂島パーキング
の次に訪れたのは
大阪市北区西天満2-8-1にあります
大江ビルヂング
施工: 葛野設計事務所
大正10(1921)年
大正時代のモダンと和を融合させたデザイン
飾り板や壷を配したユニークなデザインで愛される
中央電気倶楽部の設計者、葛野壮一郎のものだそうです
場所柄、司法法律事務所が多く入居する一方
ギャラリーやショップも多く入る
次は井戸用ポンプ へ
の次に訪れたのは
大阪市北区西天満2-8-1にあります
大江ビルヂング
施工: 葛野設計事務所
大正10(1921)年
大正時代のモダンと和を融合させたデザイン
飾り板や壷を配したユニークなデザインで愛される
中央電気倶楽部の設計者、葛野壮一郎のものだそうです
場所柄、司法法律事務所が多く入居する一方
ギャラリーやショップも多く入る
次は井戸用ポンプ へ
MID堂島パーキング
蜆川跡としじみばし跡
の次は御堂筋を横切り
大阪市北区西天満2-7-6にあります
MID堂島パーキングへ
難波小橋はこのあたりにあったと言われています
碑も何もないのが寂しい気もしますが・・・
次は大江ビルヂング へ
の次は御堂筋を横切り
大阪市北区西天満2-7-6にあります
MID堂島パーキングへ
難波小橋はこのあたりにあったと言われています
碑も何もないのが寂しい気もしますが・・・
次は大江ビルヂング へ
蜆川跡としじみばし跡 再び
わが北新地 念願かなったJR東西線 北新地駅
の次に訪れたのは
大阪市北区曾根崎新地1-1-49
梅田滋賀ビル角にあります蜆川跡としじみばし跡
前回は夜だったので再びです
天候はくもりですが 夕方だったりします
しじみばしと史跡蜆川跡はこのようになっています
このあたりに川が流れていたのかなぁ
次はMID堂島パーキング へ
の次に訪れたのは
大阪市北区曾根崎新地1-1-49
梅田滋賀ビル角にあります蜆川跡としじみばし跡
前回は夜だったので再びです
天候はくもりですが 夕方だったりします
しじみばしと史跡蜆川跡はこのようになっています
このあたりに川が流れていたのかなぁ
次はMID堂島パーキング へ
わが北新地 念願かなったJR東西線 北新地駅
わが北新地 お茶屋が軒を連ねていた北新地
の次に訪れたのは
わが北新地 念願かなったJR東西線 北新地駅
大阪の都心を東西に貫くJR東西線は平成元年(1989年)着工
8年後の同9年(1997年)に京橋ー尼崎間 12.5kmが開通した
北新地駅は国道2号線の地下約25mにあり東西線の駅の中で
最も深い 京橋駅で学研都市線と尼崎駅で神戸線・宝塚線と
直通運転されたことで北新地の利便性が飛躍的に高まった
大阪天満宮へは次の大阪天満宮駅で下車
大阪城には大阪城北詰駅下車で簡単に行けるようになった
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンには300m北にある
大阪駅からが便利である
次は 蜆川跡としじみばし跡 再び へ
の次に訪れたのは
わが北新地 念願かなったJR東西線 北新地駅
大阪の都心を東西に貫くJR東西線は平成元年(1989年)着工
8年後の同9年(1997年)に京橋ー尼崎間 12.5kmが開通した
北新地駅は国道2号線の地下約25mにあり東西線の駅の中で
最も深い 京橋駅で学研都市線と尼崎駅で神戸線・宝塚線と
直通運転されたことで北新地の利便性が飛躍的に高まった
大阪天満宮へは次の大阪天満宮駅で下車
大阪城には大阪城北詰駅下車で簡単に行けるようになった
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンには300m北にある
大阪駅からが便利である
次は 蜆川跡としじみばし跡 再び へ
わが北新地 お茶屋が軒を連ねていた北新地
茶屋 河庄の跡碑
を後にして
新地本通を進んでいくと見つけました
わが北新地 お茶屋が軒を連ねていた北新地
明治42年(1909年)の大火で北新地は壊滅状態と化したが
再出発により 表町にお茶屋が軒を並べるようになった
大正から昭和にかけて 日本の伝統的な文化を身につけた
芸妓たちが再評価されるようになり 今日でいうパーティの
コンパニオンの役割まで彼女たちが進出するようになった
昭和初期には北新地に芸妓が約700人
置屋が11軒もあった
木造2階建ての町並も美しいお茶屋街は
古き良き時代を象徴する風情であったが
戦災でほとんどが失われてしまった
と書かれてありました
次は
わが北新地 念願かなったJR東西線 北新地駅 へ
新地本通を進んでいくと見つけました
わが北新地 お茶屋が軒を連ねていた北新地
明治42年(1909年)の大火で北新地は壊滅状態と化したが
再出発により 表町にお茶屋が軒を並べるようになった
大正から昭和にかけて 日本の伝統的な文化を身につけた
芸妓たちが再評価されるようになり 今日でいうパーティの
コンパニオンの役割まで彼女たちが進出するようになった
昭和初期には北新地に芸妓が約700人
置屋が11軒もあった
木造2階建ての町並も美しいお茶屋街は
古き良き時代を象徴する風情であったが
戦災でほとんどが失われてしまった
と書かれてありました
次は
わが北新地 念願かなったJR東西線 北新地駅 へ
茶屋 河庄の跡碑
堂島薬師堂
の後
曽根崎川跡碑 と蜆橋 を経由し
大阪市北区堂島1-6あたりにあります
茶屋 河庄の跡碑へ
「小春は内を脱出でて互に手に手を取交し
北へ行こうか南へか西か東か行末も
心の早瀬 蜆川流るる 月に逆らひて・・・・」
元禄文学を支えた近松門左衛門が
「治兵衛と小春」の切ない恋を菩提の橋として
筆にした「心中天の網島」の一節であり
その舞台となった蜆川と茶屋 「河庄」の跡が
この地であります
と書かれてありました
足跡をたどるというのは面白いですね
次は
わが北新地 お茶屋が軒を連ねていた北新地 へ
曽根崎川跡碑 と蜆橋 を経由し
大阪市北区堂島1-6あたりにあります
茶屋 河庄の跡碑へ
「小春は内を脱出でて互に手に手を取交し
北へ行こうか南へか西か東か行末も
心の早瀬 蜆川流るる 月に逆らひて・・・・」
元禄文学を支えた近松門左衛門が
「治兵衛と小春」の切ない恋を菩提の橋として
筆にした「心中天の網島」の一節であり
その舞台となった蜆川と茶屋 「河庄」の跡が
この地であります
と書かれてありました
足跡をたどるというのは面白いですね
次は
わが北新地 お茶屋が軒を連ねていた北新地 へ



