□ 紀貫之歌碑
佃漁民ゆかりの地碑
に引き続き
大阪市西淀川区佃1-18-14
にあります
田蓑神社
次は 紀貫之歌碑
碑のほうは読めませんでしたが
案内版にはこう書かれてありました
土佐日記などで著名な平安時代前期の歌人で
この歌は「古今和歌集」に収録され
旅の途中 田蓑嶋(現在の佃)に
立ちよられた時の事を詠まれました
雨により 田蓑の
嶋をけふゆけば
なにはかくれぬ
ものにぞありける
次は謡曲 「芦刈」ゆかりの地碑 へ
に引き続き
大阪市西淀川区佃1-18-14
にあります
田蓑神社
次は 紀貫之歌碑
碑のほうは読めませんでしたが
案内版にはこう書かれてありました
土佐日記などで著名な平安時代前期の歌人で
この歌は「古今和歌集」に収録され
旅の途中 田蓑嶋(現在の佃)に
立ちよられた時の事を詠まれました
雨により 田蓑の
嶋をけふゆけば
なにはかくれぬ
ものにぞありける
次は謡曲 「芦刈」ゆかりの地碑 へ
□ 佃漁民ゆかりの地碑
震災復興記念碑
に引き続き
大阪市西淀川区佃1-18-14
にあります
田蓑神社
次は 佃漁民ゆかりの地碑
碑の方は読めませんでしたが
案内文にはこう書かれてありました
天正14年 徳川家康公が大阪住吉大社、
摂津多田神社の参拝の折 神崎川の渡船を勤めた縁により
後に漁業権の特権を与えられ
また 将軍家への献魚の役目を命じられ
佃の人等33名と田蓑神社宮司 平岡 正太夫の弟
権太夫好次が移住した
当初住居が与えられた
安藤対馬守 石川大隅守の邸内に
住吉4神の分神霊を奉戴して一時奉祭した
後に寛永年間に幕府より鉄炮洲の地をいただき
埋め立て造成し 天保元年 故郷の佃村にちなみ
「佃島」と命名し移住 (現、東京都中央区佃島)
また天保3年6月29日 住吉大神の社地を定め
住吉の4柱の大神と徳川家康公の御霊を奉られた
(現、東京佃島の住吉神社)
昭和40年 佃小学校と東京の佃島小学校とが
姉妹校となり以降 毎年 交互に訪問 交歓会を開催される
平成18年 「佃漁民ゆかりの地」碑が
「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」
に大阪府で只一つ認定される
次は紀貫之歌碑 へ
に引き続き
大阪市西淀川区佃1-18-14
にあります
田蓑神社
次は 佃漁民ゆかりの地碑
碑の方は読めませんでしたが
案内文にはこう書かれてありました
天正14年 徳川家康公が大阪住吉大社、
摂津多田神社の参拝の折 神崎川の渡船を勤めた縁により
後に漁業権の特権を与えられ
また 将軍家への献魚の役目を命じられ
佃の人等33名と田蓑神社宮司 平岡 正太夫の弟
権太夫好次が移住した
当初住居が与えられた
安藤対馬守 石川大隅守の邸内に
住吉4神の分神霊を奉戴して一時奉祭した
後に寛永年間に幕府より鉄炮洲の地をいただき
埋め立て造成し 天保元年 故郷の佃村にちなみ
「佃島」と命名し移住 (現、東京都中央区佃島)
また天保3年6月29日 住吉大神の社地を定め
住吉の4柱の大神と徳川家康公の御霊を奉られた
(現、東京佃島の住吉神社)
昭和40年 佃小学校と東京の佃島小学校とが
姉妹校となり以降 毎年 交互に訪問 交歓会を開催される
平成18年 「佃漁民ゆかりの地」碑が
「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」
に大阪府で只一つ認定される
次は紀貫之歌碑 へ
□ 震災復興記念碑
引き続き
大阪市西淀川区佃1-18-14
にあります
田蓑神社
次は 震災復興記念碑
宮つくる
田蓑の嶋の
神垣を
いのれば やがて
まもりますらし
と書かれてありました
また 近くにあった案内板には
こう書かれてありました
平成7年1月17日未明
震度6とも7ともいう大地震がおこりました
震源地は淡路島の一宮
よって阪神淡路大震災と名付けられました
この佃の町も1丁目・2丁目を中心に
町全体に多大な被害を受け
当神社も社務所も全壊を始め
社殿も傾き・標柱の倒壊・石鳥居・燈籠の傾き
参道の歪みと被害を受けました
町の復興を願いつつ 氏子崇敬者が再建に努められ
同年 秋の例大祭には参道を残し復興 出来ました
この後 諸祭祀の為 おくれましたが
21世紀を目前に参道復興工事に入り
無事夏祭り前に復興 出来ました
ここにこれらを永く伝える為に200年程前に
従一位 日野 資枝 がよまれた和歌と
左の標柱を建立しました
次は 佃漁民ゆかりの地碑 へ
大阪市西淀川区佃1-18-14
にあります
田蓑神社
次は 震災復興記念碑
宮つくる
田蓑の嶋の
神垣を
いのれば やがて
まもりますらし
と書かれてありました
また 近くにあった案内板には
こう書かれてありました
平成7年1月17日未明
震度6とも7ともいう大地震がおこりました
震源地は淡路島の一宮
よって阪神淡路大震災と名付けられました
この佃の町も1丁目・2丁目を中心に
町全体に多大な被害を受け
当神社も社務所も全壊を始め
社殿も傾き・標柱の倒壊・石鳥居・燈籠の傾き
参道の歪みと被害を受けました
町の復興を願いつつ 氏子崇敬者が再建に努められ
同年 秋の例大祭には参道を残し復興 出来ました
この後 諸祭祀の為 おくれましたが
21世紀を目前に参道復興工事に入り
無事夏祭り前に復興 出来ました
ここにこれらを永く伝える為に200年程前に
従一位 日野 資枝 がよまれた和歌と
左の標柱を建立しました
次は 佃漁民ゆかりの地碑 へ
□ 一夜官女の乙女塚
事平神社
に引き続き
大阪市西淀川区野里1-15-12
にあります
野里住吉神社
大きいです
お地蔵さん?もいらっしゃいました
一夜官女の祭(乙女塚)の由来 というのがありました
永徳2年(1382年) 足利3代将軍 義満の創建
と伝えられている 野里住吉神社の境内の
片隅にある「瀧の池」 の跡地に乙女塚は建てられている
それには悲しい物語が伝えられている
中津川に面した昔の野里には
打ち続く風水害と悪疫の流行によって悲惨な明け暮れで
近隣の村人たちは野里のことを 「泣き村」 と呼んでいた
この村を救う為には 毎年定まった日に
1人の子女を神に捧げよ と託宣があり
村を救う一念から村人の総意でこれを實行していた
人見御共の子女は 毎年1月20日 丑三ツ時に
唐櫃に入れられて 神社に運ばれ放置された
丁度7年目の行事を準備している時 1人の武士が立椅り
村人からことの詳細を聞き
「神は人を救うもので 人間を犠牲にすることは 神の思召しではない」
と乙女の身がわりに唐櫃に自ら入って神社に運ばれた
翌朝 そこには武士の姿はなく
大きな 「狒々」 が深手を負い絶命していた
この武士こそ 当時 武者修行中の
岩見 重太郎 であると伝えられている
村では この後 安泰の日々を送るようになった
これを後世に永く伝へるため 同じ形式で同じ
1月20日に村の災厄除けの祭をして
他に例を見ない奇祭が行われ
今日に至ったものである
明治40年より2月20日に改められた
この一夜官女の祭は昭和47年3月31日付で
大阪府文化財保護委員会より
重要民族資料として指定されている
この地は古戦場としても有名であり
享録4年6月4日 細川 常植 と 細川 春元 が
中津川で戦った時 常植方の本陣が当社であったという
現在の野里本通が旧中津川の右岸当り
摂津の大物崩という戦がこれである
次は淀川戎神社 へ
に引き続き
大阪市西淀川区野里1-15-12
にあります
野里住吉神社
大きいです
お地蔵さん?もいらっしゃいました
一夜官女の祭(乙女塚)の由来 というのがありました
永徳2年(1382年) 足利3代将軍 義満の創建
と伝えられている 野里住吉神社の境内の
片隅にある「瀧の池」 の跡地に乙女塚は建てられている
それには悲しい物語が伝えられている
中津川に面した昔の野里には
打ち続く風水害と悪疫の流行によって悲惨な明け暮れで
近隣の村人たちは野里のことを 「泣き村」 と呼んでいた
この村を救う為には 毎年定まった日に
1人の子女を神に捧げよ と託宣があり
村を救う一念から村人の総意でこれを實行していた
人見御共の子女は 毎年1月20日 丑三ツ時に
唐櫃に入れられて 神社に運ばれ放置された
丁度7年目の行事を準備している時 1人の武士が立椅り
村人からことの詳細を聞き
「神は人を救うもので 人間を犠牲にすることは 神の思召しではない」
と乙女の身がわりに唐櫃に自ら入って神社に運ばれた
翌朝 そこには武士の姿はなく
大きな 「狒々」 が深手を負い絶命していた
この武士こそ 当時 武者修行中の
岩見 重太郎 であると伝えられている
村では この後 安泰の日々を送るようになった
これを後世に永く伝へるため 同じ形式で同じ
1月20日に村の災厄除けの祭をして
他に例を見ない奇祭が行われ
今日に至ったものである
明治40年より2月20日に改められた
この一夜官女の祭は昭和47年3月31日付で
大阪府文化財保護委員会より
重要民族資料として指定されている
この地は古戦場としても有名であり
享録4年6月4日 細川 常植 と 細川 春元 が
中津川で戦った時 常植方の本陣が当社であったという
現在の野里本通が旧中津川の右岸当り
摂津の大物崩という戦がこれである
次は淀川戎神社 へ



















