□ 野里の渡し碑
引き続き
大阪市西淀川区野里1-15-12
にあります
野里住吉神社
野里の渡し碑を見つけました
槲(かしわ)の橋
の横にも野里の渡し
と書いていましたが・・・・
碑には こう書かれてありました
大阪から尼崎に通じる大和田街道は
野里の渡しで中津川を越えた
現在流路は変わっているが
住吉神社南側に当時の堤防の跡 が残っている
さらに 案内板にはこう書かれてありました
1889年(明治22年)からの改修工事によって
淀川は流路が大きく変わりました
それまでは野里住吉神社の東側は淀川に面していました
現在境内の南側に残る土手は当時の堤防 のなごりです
野里の渡しは 大阪と尼崎を結ぶ
大和田街道に設けられた渡しで
野里住吉神社のやや北側にありました
1876年(明治9年)に木製の橋が架けられるまでは
大阪と中国地方を結ぶ交通の要所として賑わっていました
一説には 室町時代に野里村が開発された時に
代官の堀江 彦左衛門によってつくられたといわれています
また 江戸時代の地誌である 「摂津志」・「摂津名所図会」には
「日本書紀」に見える「かしわの渡し 」が
野里の渡しであると記されています
次は野里住吉神社 月頼大明神 へ
大阪市西淀川区野里1-15-12
にあります
野里住吉神社
野里の渡し碑を見つけました
槲(かしわ)の橋
の横にも野里の渡し
と書いていましたが・・・・
碑には こう書かれてありました
大阪から尼崎に通じる大和田街道は
野里の渡しで中津川を越えた
現在流路は変わっているが
住吉神社南側に当時の堤防の跡 が残っている
さらに 案内板にはこう書かれてありました
1889年(明治22年)からの改修工事によって
淀川は流路が大きく変わりました
それまでは野里住吉神社の東側は淀川に面していました
現在境内の南側に残る土手は当時の堤防 のなごりです
野里の渡しは 大阪と尼崎を結ぶ
大和田街道に設けられた渡しで
野里住吉神社のやや北側にありました
1876年(明治9年)に木製の橋が架けられるまでは
大阪と中国地方を結ぶ交通の要所として賑わっていました
一説には 室町時代に野里村が開発された時に
代官の堀江 彦左衛門によってつくられたといわれています
また 江戸時代の地誌である 「摂津志」・「摂津名所図会」には
「日本書紀」に見える「かしわの渡し 」が
野里の渡しであると記されています
次は野里住吉神社 月頼大明神 へ
□ 中津川堤防跡
鼻川神社 孝元大明神
の次に訪れたのは
大阪市西淀川区花川1-8あたり
建物の塀に案内板がありました
中津川堤防跡とくろがねもち
この地は明治29年~43年(1896年~1910年)の
淀川改修工事より 埋め立てられて姿を消した
中津川左岸堤防の位置にあたります
この石垣に擁された盛土は堤防の名残です
この堤防と対峙する中津川右岸堤防は
野里住吉神社境内にその跡が残っています
この堤防に自生してきた くろがねもち(モチノキ科)は
幾多の時世を超え 今日に至っています
平成15年(2003年) 大阪市はこの樹を
「緑の遺産」として保存樹(第93号)に指定しました
次は野里住吉神社 へ
の次に訪れたのは
大阪市西淀川区花川1-8あたり
建物の塀に案内板がありました
中津川堤防跡とくろがねもち
この地は明治29年~43年(1896年~1910年)の
淀川改修工事より 埋め立てられて姿を消した
中津川左岸堤防の位置にあたります
この石垣に擁された盛土は堤防の名残です
この堤防と対峙する中津川右岸堤防は
野里住吉神社境内にその跡が残っています
この堤防に自生してきた くろがねもち(モチノキ科)は
幾多の時世を超え 今日に至っています
平成15年(2003年) 大阪市はこの樹を
「緑の遺産」として保存樹(第93号)に指定しました
次は野里住吉神社 へ
□ 西成大橋碑
皇紀2600年記念碑
に引き続き
大阪市西淀川区花川2-1-12
にあります
鼻川神社
次に見つけたのは
西成大橋碑
海老江八坂神社
にも 西成大橋の碑はありましたね
ちょうど両端になるのかな
次は 鼻川神社 孝元大明神 へ
に引き続き
大阪市西淀川区花川2-1-12
にあります
鼻川神社
次に見つけたのは
西成大橋碑
海老江八坂神社
にも 西成大橋の碑はありましたね
ちょうど両端になるのかな
次は 鼻川神社 孝元大明神 へ

















