□ 一夜官女の乙女塚
事平神社
に引き続き
大阪市西淀川区野里1-15-12
にあります
野里住吉神社
大きいです
お地蔵さん?もいらっしゃいました
一夜官女の祭(乙女塚)の由来 というのがありました
永徳2年(1382年) 足利3代将軍 義満の創建
と伝えられている 野里住吉神社の境内の
片隅にある「瀧の池」 の跡地に乙女塚は建てられている
それには悲しい物語が伝えられている
中津川に面した昔の野里には
打ち続く風水害と悪疫の流行によって悲惨な明け暮れで
近隣の村人たちは野里のことを 「泣き村」 と呼んでいた
この村を救う為には 毎年定まった日に
1人の子女を神に捧げよ と託宣があり
村を救う一念から村人の総意でこれを實行していた
人見御共の子女は 毎年1月20日 丑三ツ時に
唐櫃に入れられて 神社に運ばれ放置された
丁度7年目の行事を準備している時 1人の武士が立椅り
村人からことの詳細を聞き
「神は人を救うもので 人間を犠牲にすることは 神の思召しではない」
と乙女の身がわりに唐櫃に自ら入って神社に運ばれた
翌朝 そこには武士の姿はなく
大きな 「狒々」 が深手を負い絶命していた
この武士こそ 当時 武者修行中の
岩見 重太郎 であると伝えられている
村では この後 安泰の日々を送るようになった
これを後世に永く伝へるため 同じ形式で同じ
1月20日に村の災厄除けの祭をして
他に例を見ない奇祭が行われ
今日に至ったものである
明治40年より2月20日に改められた
この一夜官女の祭は昭和47年3月31日付で
大阪府文化財保護委員会より
重要民族資料として指定されている
この地は古戦場としても有名であり
享録4年6月4日 細川 常植 と 細川 春元 が
中津川で戦った時 常植方の本陣が当社であったという
現在の野里本通が旧中津川の右岸当り
摂津の大物崩という戦がこれである
次は淀川戎神社 へ
に引き続き
大阪市西淀川区野里1-15-12
にあります
野里住吉神社
大きいです
お地蔵さん?もいらっしゃいました
一夜官女の祭(乙女塚)の由来 というのがありました
永徳2年(1382年) 足利3代将軍 義満の創建
と伝えられている 野里住吉神社の境内の
片隅にある「瀧の池」 の跡地に乙女塚は建てられている
それには悲しい物語が伝えられている
中津川に面した昔の野里には
打ち続く風水害と悪疫の流行によって悲惨な明け暮れで
近隣の村人たちは野里のことを 「泣き村」 と呼んでいた
この村を救う為には 毎年定まった日に
1人の子女を神に捧げよ と託宣があり
村を救う一念から村人の総意でこれを實行していた
人見御共の子女は 毎年1月20日 丑三ツ時に
唐櫃に入れられて 神社に運ばれ放置された
丁度7年目の行事を準備している時 1人の武士が立椅り
村人からことの詳細を聞き
「神は人を救うもので 人間を犠牲にすることは 神の思召しではない」
と乙女の身がわりに唐櫃に自ら入って神社に運ばれた
翌朝 そこには武士の姿はなく
大きな 「狒々」 が深手を負い絶命していた
この武士こそ 当時 武者修行中の
岩見 重太郎 であると伝えられている
村では この後 安泰の日々を送るようになった
これを後世に永く伝へるため 同じ形式で同じ
1月20日に村の災厄除けの祭をして
他に例を見ない奇祭が行われ
今日に至ったものである
明治40年より2月20日に改められた
この一夜官女の祭は昭和47年3月31日付で
大阪府文化財保護委員会より
重要民族資料として指定されている
この地は古戦場としても有名であり
享録4年6月4日 細川 常植 と 細川 春元 が
中津川で戦った時 常植方の本陣が当社であったという
現在の野里本通が旧中津川の右岸当り
摂津の大物崩という戦がこれである
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