□ 大日本紡績尼崎工場跡
深江 塞の神
の次に訪れたのは
尼崎市杭瀬南新町3-15-10
にあります
小田南公園
そちらに 大日本紡績尼崎工場跡
と書かれた看板がありました
ココにはこう書かれてありました
明治22年 (1889年) 尼崎における最初の大工場
として設立された尼崎紡績会社は
大正5年 (1916年) この地に新工場の建設を開始し
大正7年 (1918年) 社名が大日本紡績株式会社と
改称された年に操業を開始しました
従来の本社工場を含めた敷地は 約19万㎡に及び
現在の大物公園・県立尼崎病院・小田南公園一帯が
それにあたります
尼崎工場は 昭和20年 (1945年) 6月15日 の空襲で
建物の大部分を失い 戦後は残された一部の建物を利用し
縫製工場として再発足しましたが 昭和40年 (1965年) に廃止されました
次は 活版EXPO 1 ① へ
の次に訪れたのは
尼崎市杭瀬南新町3-15-10
にあります
小田南公園
そちらに 大日本紡績尼崎工場跡
と書かれた看板がありました
ココにはこう書かれてありました
明治22年 (1889年) 尼崎における最初の大工場
として設立された尼崎紡績会社は
大正5年 (1916年) この地に新工場の建設を開始し
大正7年 (1918年) 社名が大日本紡績株式会社と
改称された年に操業を開始しました
従来の本社工場を含めた敷地は 約19万㎡に及び
現在の大物公園・県立尼崎病院・小田南公園一帯が
それにあたります
尼崎工場は 昭和20年 (1945年) 6月15日 の空襲で
建物の大部分を失い 戦後は残された一部の建物を利用し
縫製工場として再発足しましたが 昭和40年 (1965年) に廃止されました
次は 活版EXPO 1 ① へ
□ 深江 塞の神
深江山の神
に引き続き
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社
次は 深江 塞の神
案内板にはこう書かれてありました
江戸時代より 村境の道路に祀られており
村の疫病など邪気の入るのを防ぎ
又 旅人の道中の安全を守る霊力があった
深江では子供の守り神としても信仰が厚く
「夜泣きの神様」 として有名である
幼児が夜と昼を間違えて泣くのを直すのに
神殿の前の小石を持ち帰って枕の下に敷くと
直ると言い伝えられている
平成5年 (1993年) 2月に神社の近くの
北東の場所より移し新しく神殿を立ててお祀りす
実は 深江山の神 と隣り合わせにありました
次は大日本紡績尼崎工場跡 へ
に引き続き
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社
次は 深江 塞の神
案内板にはこう書かれてありました
江戸時代より 村境の道路に祀られており
村の疫病など邪気の入るのを防ぎ
又 旅人の道中の安全を守る霊力があった
深江では子供の守り神としても信仰が厚く
「夜泣きの神様」 として有名である
幼児が夜と昼を間違えて泣くのを直すのに
神殿の前の小石を持ち帰って枕の下に敷くと
直ると言い伝えられている
平成5年 (1993年) 2月に神社の近くの
北東の場所より移し新しく神殿を立ててお祀りす
実は 深江山の神 と隣り合わせにありました
次は大日本紡績尼崎工場跡 へ
□ 深江山の神
白玉稲荷神社
に引き続き
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社
次は 深江山の神
案内板にはこう書かれてありました
深江では江戸時代より春に山から里に下りて田の神となり
秋には稲を実らせた後 山に帰るという山の神が広く信仰されていた
山の神は六甲山の深江が見渡せる所に祀られ
日照りに悩まされることの多かった当地の人々が
雨乞いをして五穀豊穣を祈ってきました
五の祠は安政5年 (1858年) 正月に建立され
受け継がれて来ておりましたが 社会情勢の変化もあり
平成16年 (2004年) 3月に解体搬出作業を行い
境内に移設保存して 新しく神殿を建ててお祀りす
次は深江 塞の神 へ
に引き続き
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社
次は 深江山の神
案内板にはこう書かれてありました
深江では江戸時代より春に山から里に下りて田の神となり
秋には稲を実らせた後 山に帰るという山の神が広く信仰されていた
山の神は六甲山の深江が見渡せる所に祀られ
日照りに悩まされることの多かった当地の人々が
雨乞いをして五穀豊穣を祈ってきました
五の祠は安政5年 (1858年) 正月に建立され
受け継がれて来ておりましたが 社会情勢の変化もあり
平成16年 (2004年) 3月に解体搬出作業を行い
境内に移設保存して 新しく神殿を建ててお祀りす
次は深江 塞の神 へ
□ 白玉稲荷神社
引き続き
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社
次は白玉稲荷神社
ちゃんと狐さん発見
案内板にはこう書かれてありました
昔から農業の神様として五穀豊穣をはじめ、
商売繁盛、家内安全、無病息災の守護神として
毎年2月に行なわれる稲荷祭り(初午祭) とともに
長く人びとの厚い信仰をえている
白玉稲荷神社の創建年月はさだかではないが
遠く霊亀元年 (715年) に森の稲荷神社の神様が上陸された所と
伝えられている高橋川の右岸にあった 「踊り松」 の南
(現 神戸商船大学構内) に森稲荷神社の御分霊が祭られていた
その後 私有地となったので 明治41年1月に
森稲荷神社のお旅所とともに
この大日霊女神社 境内に移された
末光稲荷神社は 大正7年 旧2月24日 午の日に祀られ
現在に至っている
昭和54年10月に地盤沈下等でお社が傾き
多くの小赤鳥居なども痛みがひどくなったため
修復工事を行ない 新しく玉垣と赤鳥居を奉納す
最近 白玉・末光稲荷神社の両社殿が老朽化し
損傷がひどくなったため 平成2年11月に改築して
完成をみたので ここに完工祭を挙行して
記念にこれを建てる
次は深江山の神 へ
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社
次は白玉稲荷神社
ちゃんと狐さん発見
案内板にはこう書かれてありました
昔から農業の神様として五穀豊穣をはじめ、
商売繁盛、家内安全、無病息災の守護神として
毎年2月に行なわれる稲荷祭り(初午祭) とともに
長く人びとの厚い信仰をえている
白玉稲荷神社の創建年月はさだかではないが
遠く霊亀元年 (715年) に森の稲荷神社の神様が上陸された所と
伝えられている高橋川の右岸にあった 「踊り松」 の南
(現 神戸商船大学構内) に森稲荷神社の御分霊が祭られていた
その後 私有地となったので 明治41年1月に
森稲荷神社のお旅所とともに
この大日霊女神社 境内に移された
末光稲荷神社は 大正7年 旧2月24日 午の日に祀られ
現在に至っている
昭和54年10月に地盤沈下等でお社が傾き
多くの小赤鳥居なども痛みがひどくなったため
修復工事を行ない 新しく玉垣と赤鳥居を奉納す
最近 白玉・末光稲荷神社の両社殿が老朽化し
損傷がひどくなったため 平成2年11月に改築して
完成をみたので ここに完工祭を挙行して
記念にこれを建てる
次は深江山の神 へ
□ 大日霊女神社
旧西国浜街道碑
の次に訪れたのは
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社
鳥居大きいですね
ぱっとみは読めなかった
境内へ
社殿です
案内板にはこう書かれてありました
昭和47年(1972年) 迄深江北町4丁目から
本庄町3丁目にかけて「薬王寺」という町名(字名)が残っていた
その付近に中世に「薬王寺」が建立されていて真言宗に属し
「大日如来」 を本尊として祀っていたが文明13年 (1481年)に「薬王寺」 住職
「観空」は本願寺第8代門主 蓮如上人の教化により 帰依して
寺名を 「延寿寺」 に改名 浄土真宗に改宗し 本尊を 「阿弥陀如来」とした
そのため 寺を出された旧本尊の 「大日如来」 を村人が引取って
現在地に祀ったのが この神社の創建だと伝えられている
明治維新まで 神仏習合の中で 「大日如来」 を本尊とする鎮守社が
明治元年 (1866年) の神仏分離令により分離され 明治6年 (1873年) 村社に列格された
創祀以来 500年にわたり 深江の里人から 「大日ツァン」 と親しまれ
心のよりどころとして崇拝されて来た深江の氏神さまが この神社である
明治41年 (1908年) 4月に立派な本殿が新築された
太平洋戦争の昭和20年 (1945年) 8月の大空襲で社務所・だんじり庫
樹齢数百年の多くの松も焼失す
戦災を免された本殿も 平成7年 (1995年) 1月の阪神大震災で倒壊し
平成12年 (2000年) 11月 新築再建す
次は白玉稲荷神社 へ
の次に訪れたのは
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社
鳥居大きいですね
ぱっとみは読めなかった
境内へ
社殿です
案内板にはこう書かれてありました
昭和47年(1972年) 迄深江北町4丁目から
本庄町3丁目にかけて「薬王寺」という町名(字名)が残っていた
その付近に中世に「薬王寺」が建立されていて真言宗に属し
「大日如来」 を本尊として祀っていたが文明13年 (1481年)に「薬王寺」 住職
「観空」は本願寺第8代門主 蓮如上人の教化により 帰依して
寺名を 「延寿寺」 に改名 浄土真宗に改宗し 本尊を 「阿弥陀如来」とした
そのため 寺を出された旧本尊の 「大日如来」 を村人が引取って
現在地に祀ったのが この神社の創建だと伝えられている
明治維新まで 神仏習合の中で 「大日如来」 を本尊とする鎮守社が
明治元年 (1866年) の神仏分離令により分離され 明治6年 (1873年) 村社に列格された
創祀以来 500年にわたり 深江の里人から 「大日ツァン」 と親しまれ
心のよりどころとして崇拝されて来た深江の氏神さまが この神社である
明治41年 (1908年) 4月に立派な本殿が新築された
太平洋戦争の昭和20年 (1945年) 8月の大空襲で社務所・だんじり庫
樹齢数百年の多くの松も焼失す
戦災を免された本殿も 平成7年 (1995年) 1月の阪神大震災で倒壊し
平成12年 (2000年) 11月 新築再建す
次は白玉稲荷神社 へ
□ 魚屋道碑
青木八坂神社
の次に訪れたのは
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社 の横手
で見つけました
魚屋道碑
お隣の案内板にはこう書かれてありました
魚尾道は江戸初期から灘地方と有馬を結ぶ
東六甲最古の山越え交通路で 当時の絵地図では
森から山に登り 蛙岩・山の神・風吹岩・東お多福山・
本庄橋・一軒茶屋・射場山山復・有馬のルートを通り
「六甲越え」と呼ばれていた
幕府が 灘から有馬への正規の街道を
西宮・宝塚・船坂・有馬の腺に定めた後も
遠まわりを嫌った人々はこの道を利用した
そこで 街道沿いの西宮や生瀬などの宿場の商人は
これを「抜け荷の道」と稱して 通行禁止を大阪奉行所へ訴え
しばしば紛争が生じた
文化3年(1806年) に灘本庄と有馬の人々がひそかに道の大修理をしている
深江浜の魚は大正時代までここから有馬に運ばれていた
次は旧西国浜街道碑 へ
の次に訪れたのは
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社 の横手
で見つけました
魚屋道碑
お隣の案内板にはこう書かれてありました
魚尾道は江戸初期から灘地方と有馬を結ぶ
東六甲最古の山越え交通路で 当時の絵地図では
森から山に登り 蛙岩・山の神・風吹岩・東お多福山・
本庄橋・一軒茶屋・射場山山復・有馬のルートを通り
「六甲越え」と呼ばれていた
幕府が 灘から有馬への正規の街道を
西宮・宝塚・船坂・有馬の腺に定めた後も
遠まわりを嫌った人々はこの道を利用した
そこで 街道沿いの西宮や生瀬などの宿場の商人は
これを「抜け荷の道」と稱して 通行禁止を大阪奉行所へ訴え
しばしば紛争が生じた
文化3年(1806年) に灘本庄と有馬の人々がひそかに道の大修理をしている
深江浜の魚は大正時代までここから有馬に運ばれていた
次は旧西国浜街道碑 へ
□ 西宮港案内板
猿田彦社 稲荷社 天玉明社
の次に訪れたのは
西宮本町の交差点あたり
住所で言うと 西宮市鞍掛町1丁目
国道43号線沿いに小さな公園のような場所がありました
そちらで見つけた 西宮港
と書かれた案内板
こう書かれてありました
往古 入江だった西宮周辺には 武庫湊があり
大和朝廷の玄関口として賑いをみせ
「津門」 の地名はその名残といわれている
その後 河川の推積作用によって
入江が陸地にかわり 西宮は漁村から
戎・広田両社の門前町となり
交通の面では 兵庫・大阪の中間にあって
陸上交通の要所でもあり また海上交通でも
兵庫・難波の補助港的な役割を果した
江戸時代には 西宮の酒造業が江戸積で飛躍的に発展し
港は樽廻船の発着地として 重要となり 寛政の頃
当舎屋金兵衛など西宮の町人たちは港の修築に努力した
西宮港は 江戸末期から明治初期にかけて
西宮はもちろん灘五郷より集められた新酒を
江戸へ運ぶ新酒番船の出港地となり
明治以降も 清酒・宮水・米穀などの出入港として繁栄した
しかし 第2次世界大戦以後は自動車等に輸送の主役を譲り
現在では ヨット等レジャー基地として新しい生命をふきこまれている
次は青木八坂神社 へ
の次に訪れたのは
西宮本町の交差点あたり
住所で言うと 西宮市鞍掛町1丁目
国道43号線沿いに小さな公園のような場所がありました
そちらで見つけた 西宮港
と書かれた案内板
こう書かれてありました
往古 入江だった西宮周辺には 武庫湊があり
大和朝廷の玄関口として賑いをみせ
「津門」 の地名はその名残といわれている
その後 河川の推積作用によって
入江が陸地にかわり 西宮は漁村から
戎・広田両社の門前町となり
交通の面では 兵庫・大阪の中間にあって
陸上交通の要所でもあり また海上交通でも
兵庫・難波の補助港的な役割を果した
江戸時代には 西宮の酒造業が江戸積で飛躍的に発展し
港は樽廻船の発着地として 重要となり 寛政の頃
当舎屋金兵衛など西宮の町人たちは港の修築に努力した
西宮港は 江戸末期から明治初期にかけて
西宮はもちろん灘五郷より集められた新酒を
江戸へ運ぶ新酒番船の出港地となり
明治以降も 清酒・宮水・米穀などの出入港として繁栄した
しかし 第2次世界大戦以後は自動車等に輸送の主役を譲り
現在では ヨット等レジャー基地として新しい生命をふきこまれている
次は青木八坂神社 へ









