□ 魚屋道碑
青木八坂神社
の次に訪れたのは
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社 の横手
で見つけました
魚屋道碑
お隣の案内板にはこう書かれてありました
魚尾道は江戸初期から灘地方と有馬を結ぶ
東六甲最古の山越え交通路で 当時の絵地図では
森から山に登り 蛙岩・山の神・風吹岩・東お多福山・
本庄橋・一軒茶屋・射場山山復・有馬のルートを通り
「六甲越え」と呼ばれていた
幕府が 灘から有馬への正規の街道を
西宮・宝塚・船坂・有馬の腺に定めた後も
遠まわりを嫌った人々はこの道を利用した
そこで 街道沿いの西宮や生瀬などの宿場の商人は
これを「抜け荷の道」と稱して 通行禁止を大阪奉行所へ訴え
しばしば紛争が生じた
文化3年(1806年) に灘本庄と有馬の人々がひそかに道の大修理をしている
深江浜の魚は大正時代までここから有馬に運ばれていた
次は旧西国浜街道碑 へ
の次に訪れたのは
神戸市東灘区深江本町3-5-7
にあります
大日霊女神社 の横手
で見つけました
魚屋道碑
お隣の案内板にはこう書かれてありました
魚尾道は江戸初期から灘地方と有馬を結ぶ
東六甲最古の山越え交通路で 当時の絵地図では
森から山に登り 蛙岩・山の神・風吹岩・東お多福山・
本庄橋・一軒茶屋・射場山山復・有馬のルートを通り
「六甲越え」と呼ばれていた
幕府が 灘から有馬への正規の街道を
西宮・宝塚・船坂・有馬の腺に定めた後も
遠まわりを嫌った人々はこの道を利用した
そこで 街道沿いの西宮や生瀬などの宿場の商人は
これを「抜け荷の道」と稱して 通行禁止を大阪奉行所へ訴え
しばしば紛争が生じた
文化3年(1806年) に灘本庄と有馬の人々がひそかに道の大修理をしている
深江浜の魚は大正時代までここから有馬に運ばれていた
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