夢でなければ
審議拒否だと、審議復帰だと、ふざけるにもほどがある。
自民党の政治家は自分たちの仕事を何と心得ているのだ。多くの国民が生活の困窮に喘いでいる。日本全体が預貯金などの金融資産を取り崩しながら何とか食いつないでいるような状況にある。収入が先細って行く将来の見通しに対する好転の兆しが見えないので借金する体力すら国民から消えつつある。マンションの販売戸数が10年前に比べて半分以下に激減していることからも明らかだ。これではデフレになって、なおかつ物が売れなくて当然だ。衣食足りて礼節を知る、とは言うが生活の基本が成り立たなくなってきている。
日本は今や30兆円余りの税収で90兆円の予算を組んでいる。これはもはや節約してどうにかなるレベルではない。しかし国の借金(国債)と企業や個人の借金を同等に考えるべきではない。企業や個人は借金を返済できる見込みがなくなると破産して整理されることになる。しかし国は違う。国は実質的に“破産状態”にはなり得るが、借金が原因で国家機能がストップして壊滅するということにはならない。むしろハイチの大地震のような天災や戦争による治安や秩序の崩壊が国家にとっては致命的となる。国家とは人民統治のメカニズムであって商店ではないのである。経済破綻における、国家と企業や個人とのわかりやすい違いが国家には貨幣を発行する権限があるということだ。国債について言えば、国は満期日にきちんと利息をつけて償還することが出来ている間は、どれほど天文学的な残債があろうとも存亡を問われることはないし恐慌にもならない。とりあえず通貨や国債の価格(信用)が安定していれば、国の借金が巨大だからと言って国民生活が戦時中のような困窮に耐えなければならないという理由にはならないはずだ。
ところが今の大不況は、天災や戦争同様に社会秩序を喪失しかねない危機的状況にあるのであって、審議拒否だなどと寝ぼけたことを言っていた政治家は万死に値する。政治能力以前の問題だ。これでは箕面の猿に議員バッジを付けさせていた方が日本はまともな国になるのではないのか。野生の猿でも集団の中で知恵を働かせながら道義的に生きている。政策の議論ではなく、審議拒否で主導権を握ろうとするかの原始的な方法ははっきり言って猿以下である。
日本の経済は自助努力で立ち直れる能力を失ってしまったかのように見える。軍事面だけでなく経済においてもアメリカの影響が強すぎる。アメリカが風邪を引けば、日本は肺炎に罹ってしまうのである。何でこうでなければならないのか。本当の問題点は一体どこにあるのか。そもそもこのような国内構造を長年にわたって連綿と構築してきたのは自民党ではないのか。ところが自民党は自民党政治の総括や反省もまったくないままに、マントラを唱えるがごとく政治と金の追求さえしていれば自分たちが再浮上できる近道だと考えているようである。まさにご立派な猿知恵である。
そのような獣に入れ知恵で後押ししているマスコミにはより構造的な問題が横たわっている。一口にマスコミと言えば、種々雑多のメディアがそれぞれの角度と切り口から国民全体の声を代表しているように考えている人が多いかも知れないが、社会本質を考察する時にその見方は間違っていると思う。実際には4社か5社の新聞社が世論の動向を牛耳るようにコントロールしながら大勢を決定している。実は世論コントロールこそが大新聞社の権威と権益の根幹なのだ。それは本来、正義や道徳とはまったく無関係な領域なのだが、大衆にはどうもその機微がわからないようなのである。どうしてだろうか。少しわかりやすく私なりに説明を試みてみたいと思う。
先ず第一に、世の中全体の不況は大新聞社には無関係というわけにはいかないという当たり前の前提条件がある。むしろ一番、大きなダメージを被っている業種であると言えるかも知れない。私の家では朝日新聞と読売新聞を取っているが、2紙も取っている家はかなり稀だと思われる。2紙どころか、今や新聞を取っていない家庭が急増しているのだ。新聞を取っていないと言えば、我々が子供の時には極貧の家庭を想像したものだが、今日にいたってはそうではない。現に私の会社の顧問税理士は、ずっと日経新聞を購読していたが最近になって新聞を取るのをやめてしまったと言っていた。インターネットを見ていれば大体のことはわかるので新聞の必要性を感じなくなったことと節約のためらしい。税理士ですらそうなのである。
このように新聞業界は日本全体の大不況の中でも特に斜陽化しているのだ。このような状況が新聞社内部において、どのような世論誘導に結びつくことになるかを看破することができなければ、そういう最低限の知性を有する人間が増えなければ世の中は変わり様がないのであろう。ゆっくりと惰性のように沈没してゆくだけである。新聞の販売部数が減少すると当然その分の売上が少なくなるが、それ以上に広告価値が小さくなることの損失が甚大である。各新聞の販売部数は公称なので多分にごまかしがあると思うのだが(厳密に言えばそれ自体詐欺のようなものだが)、今日のように極端に購読者が減ってくると大企業が新聞広告に金を出さなくなり、ネット広告に移行してゆくこととなる。新聞広告は地元のスーパーの特売や求人などの折込広告などが大勢を占めるようになる。これは新聞社系列下の各TV局においても事情は同様であろう。今や大企業自体が広告効果以前の問題として見ても、新聞やTVなどに莫大な広告料金を支出する余裕がなくなってきている。大新聞社や系列下のテレビ局は図体の大きさゆえに地元の商店などを相手にしていたのでは経営が成り立たないのだ。そのようなマスコミ資本は、有数の自動車メーカーや化粧品会社、ビール会社が大いに儲かって、億単位の金を広告にぽんと出してくれてこそ潤うのである。よって政治的に見れば、マスコミ資本が基本的には自民党の大企業中心主義の主張と同調しやすい体質であることはご理解いただけるであろう。そうは言っても自民党政権の時に、まさか右も左も金主である大企業万歳、自民党万歳の論陣を張ることなど出来ないから、そんなことをすれば結局言論の差異がなくなって淘汰されるのは目に見えているからであるが、右と左に分かれて政権を攻撃したりあるいは擁護したりの民主主義的ゲームが繰り広げられることとなる。
ところがいざ本当に民主党政権になってしまうと、各メディアはそれまでの“お遊び”を一旦中止して和平協定を結び、経営を最優先した元の自民党政治回帰への道を敷かなければならないことになるのだ。メディア間の戦いは自民党が政治の中心に復活するまでお預けとしましょう、ということだ。また新聞社は政治家への企業献金について重箱の隅をつつくような糾弾をしながらも企業献金そのものの禁止にはかなり消極的である。なぜなら大企業の政治への影響力と新聞社が恣意的にその違法性を暴き出す特権を温存させたいからである。私の言っていることがご理解いただけるであろうか。我々の目の前に提示される正義とは、常に少数の支配階層のご都合主義による微妙なバランスの上で成り立っているものなのである。なぜこのような明白なことを多くの人が理解できないのか、私は心底、不思議でしようがない。夢を見ているような心持である。あるいは私は本当に夢を見ているのかも知れない。
平安時代に空海と最澄が唐から伝えた密教は、天皇家や外戚として摂関政治を執り行う藤原氏一族と深く結びつきながら三つ巴の関係性の中で日本の精神史を形作ってきた。そこに民衆はまったく関与していなかった。時は1200年経た21世紀、平成の日本にあってもマスコミ資本、政党、司法権力の三者がそれぞれの権益を失わないための綱引き劇を演じている点において本質的には平安時代とまったく変わっていない。国民はどこまでも不在である。
ところでホリエモンは結局のところ頭は良くても“世間知らず”だったのだろうなと思う。新興勢力が資本の論理だけで新聞社を傘下に収めることの恐ろしさが見えていなかったのだ。しかし本当は大新聞社の一つや二つを潰していく位ではないと日本は現状から脱却できないように思う。記者クラブの排他性や冤罪報道との関連も含めて総括的にメディア構造の改革を考える時期に来ていると私は思う。
日本サッカーの一考察
こういうことを書くと、何をわかったような批評を素人が生意気にするのだと不快に思われる方もいるであろうが、先日のサッカー日韓戦についての率直な感想を述べたい。
その前に、私は以前から日本代表チームの国際試合を見ていると勝敗とは無関係に、何故かしら憂鬱な気分に陥ることが多かったのだが、14日の日韓戦でその理由がはっきりとわかったような気がした。結論から言えば、日本のサッカースタイルは、まるで日本社会の縮図そのものなのである。
日本サッカーの特徴は言うまでもなく組織プレイである。組織プレイとは文字通りシステムの力を前面に出して戦うスタイルだ。確かに日本のサッカーがこの10年で飛躍的に強くなったのは事実である。ボール回しを見ていると洗練されていてスタイリッシュですらある。どことなく落ち着いた余裕が感じられる。ところがである。ゴール前で相手チームのマークが外れてチャンスになった途端に、あたふたとまごついているかのような風情になるのである。選手の視線が足元のボールに向けられていることが端的に余裕の無さを物語っている。それで結局、選手は前を向くことすら出来ずにシュートまで辿りつかないのである。そこにはコンマ何秒かの逡巡と萎縮が見て取れる。中盤でボール回しをしている時はとても格好いいのに、チャンスになると不細工になる。同じ選手の身のこなしとは思えないぐらいだ。
サッカーにおいてシステムの力とは、選手たちの均質で予測可能な動きの総合力に他ならないのではないであろうか。日本のサッカーに決定力、得点力が欠けていることは何年も前から指摘されていることである。決定力とはすなわち突破力である。それでは突破力とは何かと言うとまごつかず、ためらわず、伸びやかにシュートまでいきつく個人の才能だと思う。その才能の本質はシステムの力とは違って、異質で予測不能な動きではなかろうか。それでは結局、日本選手には独創的なゴールを生み出す才能がないから仕方ないのではないかと言ってしまえば身も蓋もないが、問題はそれほど単純ではないと私は考える。日本の指導者や監督たちが組織力を優先しすぎて、個人の才能の芽を潰している傾向があるのではないであろうか。その根底には組織力と突出した個人の才能が相反する要素であるとする考え方があるのではないかと思える。
14日の日韓戦を振り返ってみると、ボールをキープしているのはほとんど日本である。漠然と見ていると日本が優位に試合を進めているように見える。得点をするチャンスが何度も訪れそうな気配が中盤のボール回しを見ていると感じられる。ところが実際には日本はPKでしか得点を上げることができない。その試合だけに限らず日本の得点力はコーナーキックやフリーキックなどのセットプレイからがほとんどで、ボールコントロールから前線突破していく迫力がない。対して韓国は一見すると劣勢のように見えるが、日本との戦い方、勝ち方をよく心得ているのであろう。日本の組織力は優秀であるが90分間は緊張を持続させることは出来ないはずだ、必ず何回かは綻びが出てくる場面がある、と読んでいる。それで実際にその数少ないチャンスにボールを奪った選手が単身で駆け上がり確実にゴールを決めるのだから敵ながら見事としか言いようがない。そこにある力が決定力であり、突破力である。かくして日本選手の集中力はいかに綻びを生じさせないラインを保つかということに注がれることとなり、得点は神の恩寵であるかの幸運を期待することになる。はっきり申し上げて、そのような日本のサッカーは面白くも何ともないのである。面白くないだけではなく組織力対突破力の戦いでは、突破力の方に軍配が上がることはこれまでの日韓戦の戦績が雄弁に物語っている。
極論すれば、中盤付近から連携プレイなどまったく無視して単身ドリブルだけで切り込んでいくスタンドプレイがサッカーの醍醐味であり本質だと思う。5人抜きでゴールを決めるマラドーナのようにチームが勝とうが負けようが自分が目立つことこそ第一だと考えるようなタイプの選手が現れないことには、日本のサッカーは面白くならないし最終的に本当の強さへ脱皮できないと私は思う。もちろん日本はそのような卓越した個人の能力がないから組織プレイで立ち向かわなければならないのだという意見もあるであろう。国民性の問題もあるかも知れない。あるいは一人だけ目だって異質な動きをすれば監督から叱られてメンバーから外されたり、得点に結びつかなければマスコミにこっぴどく叩かれるということもあるであろう。しかしブラジルやヨーロッパの強豪国の試合を見ていると核となる得点能力の高い選手を中心に組織が臨機応変に機能しているように感じられる。日本のようにゴール前の押しくら饅頭のようなごちゃごちゃとした状態から辛うじて得点するのとはえらい違いだ。
鶏と卵の議論をしてもしようがないが、サッカーのようなスポーツも一つの文化として10年ぐらいの長期的なスパンで作り上げていくことを考えないと我が国に偉大な才能は現れないと思う。このままではいつまでたっても韓国に勝ち切れないぞと言いたい。基本は考え方の問題ではないのか。サッカーだけでなく野球もそうだが、日本と韓国の実力は伯仲しているように見えるが質が全然違う。日本は何ていうか官僚的なのだ。運動神経が抜群の役人たちがユニホームを着て指揮官の命令通りに戦っているように私の目には見える。それで私は無意識に憂鬱な気分に陥っていたのだ。本来、個人の才能が最も重視される分野であるべきスポーツまでもがシステマティックに管理されているようなゲームを見ると何と日本人には官僚被支配のDNAが深く刻み込まれているのかと愕然とする。一方、韓国は水も漏らさぬような日本の官僚型ラインに対峙しつつ、個人の力で踏み破っていこうとする気迫が感じられるので思わず私は韓国を応援してしまいそうにもなる。我々一般人からすれば、まあ言わば日本の裁判所、検察、メディア資本の三者による鉄壁の連携システムみたいなものだ。我々もそのラインを踏み破っていく勇気を持たなければ生活は変わらない。日常生活もサッカー同様の戦いである。足元のボールだけでなく常に全体が見えていないと強くはなれない。また豊かな想像力や優美さ、奔放性は管理体系の中からは決して生まれない。サッカーも人生も国家もそれらにこそ本来の可能性と美しさがあると私は信じている。
結局は何の話だったのか。