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No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

企業論、人財論、労働論、マーケティング論、プロモーション論。
時事問題、関心事、個人的な日常など、徒然なるままに綴ります。

クライアント先のマネージャーさんから釣りのお誘いがあった。昨日のことである。

すぐさまピンときた。波止場からでもビックサイズが揃う、春イカ(アオリ)のシーズン中なのだ。

 

 

この時期、堤は釣り人で溢れている。活けアジをエサにするヤエン師、ウキ仕掛け師が、竿を出せるギリギリの間隔で並ぶ姿も珍しくはない。

 

さらには、エビに似た疑似餌をひたすら投げては巻くエギンガー。ラン&ガンを真骨頂にし、各波止を渡り鳥のように歩く。

 

個人的には、ほぼヤエンオンリーな釣り方だが、病みつきになって仕方がない。イカが泳ぐアジ(エサ)に抱きついた時のけたたましいドラグ音。昼寝から一瞬にして目覚める如くである。ヤエンをラインに掛け、投入するシーン。緊張感から掌に汗が滲む。ヤエンがイカに到達し、ジェット噴射をもって抵抗するシーン。その姿を見たいと切に願う。

 

もちろん、釣り応えもある。1.5~2号くらいの竿が弧のように曲がり、実に気持ちの良いファイトになるのだから。

 

アオリイカ釣りには2シーズンある。春はビックサイズ、秋はスモールサイズの。

イカ釣りファンは両方を狙うものだが、なんせアオリイカは旨い。もちろん他のイカも旨いのだが、お刺身、焼き共にどこか別格なような気がしてならないのだ。

 

そういう春イカのシーズンも、もう終盤戦に入ったこの頃。
例年5月が最盛期だが(和歌山県中紀辺りは)、今年はいつまで接岸を続けるのだろう。毎年恒例の儀式に参加するような気分にもなるのだが、至高の悦びを味わいたいものだ。

目覚め、間もなく忘れる。確かに覚えていたはずなのに。
夢のことだが、だいたいはMOCO'Sキッチン(ZIP!・日本テレビ)の頃には綺麗さっぱりだ。

 

 

人の記憶といえば『エビングハウスの忘却曲線』が有名すぎるが、20分後には42%ぐらいを忘れてしまうらしい。さらに、1日後には74%。1週間後には77%という具合だ。

 

そう。人の記憶とは儚いのだ。

 

余談的だが、どれだけの人が覚えているだろうか。昨年の東京五輪エンブレム問題。ベルギーの劇場『THEATRE DE LIEGE』のロゴと酷似しているというものだったが、8月の出来事である。

 

翌9月には、安保関連法案へのデモ。国会議事堂前をはじめ各地で繰り広げられたが、どこか熱狂的でロックバンドのライブ会場さながらの雰囲気でもあった。さらに『次の選挙でNOを!』と叫ばれもしたが、いよいよ来月10日は参院選なのだよね。投票の行方はいかに。

 

そういえば。あの日あのとき神輿に担がたSEALDs。その後はどうなったのだろう。活動を追っていないがゆえ知らないだけなのだけれど。

 

『欲求』という記憶もまた不確かなものである。

というのは、この社会には優れたものが氾濫しているわけで、新たな欲求に出会う機会にも溢れていることを意味するからだ。

 

たとえば、センスが良く素敵すぎる『この商品が欲しい』とする欲求。検討する中、間もなく他のそれに出会ったら、どうだろうか。

 

料理の味に感動し、『またこのお店に来よう』とする欲求。次の機会に訪れたお店の味も超絶的で、雰囲気も抜群だったらどうだろうか。

 

ようするに、何かの欲求がその瞬間に確かに芽生えるも、新たなそれに出会うなり不確かになるものはそれなりにあるだろう。

 

とはいえ、惜しい。惜しいではないか。

一度、そこまで気に入ってくれた人に忘れ去られてしまうとは。

 

冒頭の『エビングハウスの忘却曲線』。
これに対抗するには、2つが大事だと脳科学的に分かっている。繰り返しと強烈さだ。

 

生活者と頻繁に繰り返しコンタクトを持つ方法論はいくつもあるが、ネットは最も向くツールだろう。(ソーシャル、SNSはそれに強いし)

 

また、コスト、販促・広告予算が制限、課題となる企業や店舗もある中、無料(あるいは安い)という使い勝手の良さもあるだろう。

 

もちろん、頻繁に繰り返すとは、地道がゆえ過酷でもある。こんなこと続けて意味あるのか?と脱力したりして。無反応に落ち込んだりもして。

 

でも、頑張ろうよ。人は間もなく忘れてしまう生き物だし、ハイクオリティは標準装備並みの社会なのだからさ。

『言葉とは偉大だ』。

温かさや勇気、はたまた、熱情や愛情等を誰かに届けられるからである。

 

一方、その言葉をどう受け止め、理解、解釈するかは、受け手の自由でもある。

 

たとえば、話し手の釈明とは、よくあるシーンだ。政治、企業組織内、お店とお客、プライベート、諸々と、『そんなつもりで言ったのではない。それは真意ではない。』という風に。

 

この場合、一見、受け手が誤解をしたような構図だが、本当にそうだろうか。

 

全てが、とは言えないけれど、その多くは話し手の使う言葉が正しくない、または配慮に欠けるという理由から起きているように思う。(いや、その源は心理の中に潜んでいたりもするわけだが)

 

 

 

価値を伝える時も言葉

 

企業(店舗)が生み出した商品(サービス)、コンテンツを生活者へ伝える時、必ず言葉を使う。そして、生活者はその言葉通りに受け止め、認識をするものでもある。

 

たとえば、ハイスペックを謳えば『良いものだ』と認識するし、一方でそのハイスペックが『自分にとって必要なものか』も判断するわけで。

 

さらに、他社のモノ(サービス)とのスペック比較、価格比較にもなるわけだが、本当に伝える言葉として十分なのだろうか。単なるハイスペックモノなのだろうか。その業界内で使い古された言葉の価値しかないのだろうか。

 

いや、そうじゃないだろう。きっと。
そのモノ(サービス)が持つ価値を細部にまで発展させていけば、あらゆる視点から眺め直せば、社内の誰も気づかなかったような価値がまだまだあるに違いない。それを生活者へ伝える言葉も創られるに違いない。

 

そう思うと、自己啓発、社内研修、テクニック等もそれはそれで必要だが、言葉の持つ偉大さ、そして難しさもまた、理解を深め、磨くべき大事な対象だと思う次第でもある。(それ次第により、売上、数字、営業成績は大きく変わるのだから)

 

そういえば。言葉として思い出すのは東日本大震災時の報道。

その際、NHKは敢えて3つの言葉を使わなかった。(①被災者 ②がれき ③壊滅的)

 

被災した人への配慮が分かる逸話だが、言葉とは受け手がどう理解、解釈するかに掛かり、さらに、どのような気分や感情になるかをよく知るエピソードでもあるだろう。