言葉とは、受け手優先の原理で働くもの | No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

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企業論、人財論、労働論、マーケティング論、プロモーション論。
時事問題、関心事、個人的な日常など、徒然なるままに綴ります。

『言葉とは偉大だ』。

温かさや勇気、はたまた、熱情や愛情等を誰かに届けられるからである。

 

一方、その言葉をどう受け止め、理解、解釈するかは、受け手の自由でもある。

 

たとえば、話し手の釈明とは、よくあるシーンだ。政治、企業組織内、お店とお客、プライベート、諸々と、『そんなつもりで言ったのではない。それは真意ではない。』という風に。

 

この場合、一見、受け手が誤解をしたような構図だが、本当にそうだろうか。

 

全てが、とは言えないけれど、その多くは話し手の使う言葉が正しくない、または配慮に欠けるという理由から起きているように思う。(いや、その源は心理の中に潜んでいたりもするわけだが)

 

 

 

価値を伝える時も言葉

 

企業(店舗)が生み出した商品(サービス)、コンテンツを生活者へ伝える時、必ず言葉を使う。そして、生活者はその言葉通りに受け止め、認識をするものでもある。

 

たとえば、ハイスペックを謳えば『良いものだ』と認識するし、一方でそのハイスペックが『自分にとって必要なものか』も判断するわけで。

 

さらに、他社のモノ(サービス)とのスペック比較、価格比較にもなるわけだが、本当に伝える言葉として十分なのだろうか。単なるハイスペックモノなのだろうか。その業界内で使い古された言葉の価値しかないのだろうか。

 

いや、そうじゃないだろう。きっと。
そのモノ(サービス)が持つ価値を細部にまで発展させていけば、あらゆる視点から眺め直せば、社内の誰も気づかなかったような価値がまだまだあるに違いない。それを生活者へ伝える言葉も創られるに違いない。

 

そう思うと、自己啓発、社内研修、テクニック等もそれはそれで必要だが、言葉の持つ偉大さ、そして難しさもまた、理解を深め、磨くべき大事な対象だと思う次第でもある。(それ次第により、売上、数字、営業成績は大きく変わるのだから)

 

そういえば。言葉として思い出すのは東日本大震災時の報道。

その際、NHKは敢えて3つの言葉を使わなかった。(①被災者 ②がれき ③壊滅的)

 

被災した人への配慮が分かる逸話だが、言葉とは受け手がどう理解、解釈するかに掛かり、さらに、どのような気分や感情になるかをよく知るエピソードでもあるだろう。