『言葉とは偉大だ』。
温かさや勇気、はたまた、熱情や愛情等を誰かに届けられるからである。
一方、その言葉をどう受け止め、理解、解釈するかは、受け手の自由でもある。
たとえば、話し手の釈明とは、よくあるシーンだ。政治、企業組織内、お店とお客、プライベート、諸々と、『そんなつもりで言ったのではない。それは真意ではない。』という風に。
この場合、一見、受け手が誤解をしたような構図だが、本当にそうだろうか。
全てが、とは言えないけれど、その多くは話し手の使う言葉が正しくない、または配慮に欠けるという理由から起きているように思う。(いや、その源は心理の中に潜んでいたりもするわけだが)
価値を伝える時も言葉
企業(店舗)が生み出した商品(サービス)、コンテンツを生活者へ伝える時、必ず言葉を使う。そして、生活者はその言葉通りに受け止め、認識をするものでもある。
たとえば、ハイスペックを謳えば『良いものだ』と認識するし、一方でそのハイスペックが『自分にとって必要なものか』も判断するわけで。
さらに、他社のモノ(サービス)とのスペック比較、価格比較にもなるわけだが、本当に伝える言葉として十分なのだろうか。単なるハイスペックモノなのだろうか。その業界内で使い古された言葉の価値しかないのだろうか。
いや、そうじゃないだろう。きっと。
そのモノ(サービス)が持つ価値を細部にまで発展させていけば、あらゆる視点から眺め直せば、社内の誰も気づかなかったような価値がまだまだあるに違いない。それを生活者へ伝える言葉も創られるに違いない。
そう思うと、自己啓発、社内研修、テクニック等もそれはそれで必要だが、言葉の持つ偉大さ、そして難しさもまた、理解を深め、磨くべき大事な対象だと思う次第でもある。(それ次第により、売上、数字、営業成績は大きく変わるのだから)
そういえば。言葉として思い出すのは東日本大震災時の報道。
その際、NHKは敢えて3つの言葉を使わなかった。(①被災者 ②がれき ③壊滅的)
被災した人への配慮が分かる逸話だが、言葉とは受け手がどう理解、解釈するかに掛かり、さらに、どのような気分や感情になるかをよく知るエピソードでもあるだろう。