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企業論、人財論、労働論、マーケティング論、プロモーション論。
時事問題、関心事、個人的な日常など、徒然なるままに綴ります。

江戸っ子丸。
年に数回、必ず乗る釣船だ。

 

『久々に行ってみるか。そろそろハマチだな』と、最近の釣果をネットでチェックしようとした所、『江戸っ子』と検索するミスを。

 

ページトップは『Wikipedia』だったのだが、そう言えば、ボクも江戸っ子だったっけ。

 

さらに小見出しへ視線をやると、江戸っ子気質(かたぎ)なるものが載っている。ふむ。気になるではないか。どう解説されているのだろう。

 

 

まず、江戸っ子の定義だか、③を必須にいずれかに当てはまること。

 

①山王権現、神田明神の信者(氏子、檀家)
②古町に生まれた者
③三代以上続いて江戸に生まれ、育つ

 

(ふむ。②・③に該当)

 

●気質

強がり。意地っ張り。こだわりを貫く。はっきりと物を言う。

向こう見ず。喧嘩っ早い。独りよがり。
金離れが良い。細かいことにこだわらない。
議論が苦手。人情家で涙もろい。正義漢。お祭り好き。

 

(ふむ。概ね当たっていそうだが、そうじゃないものもありそうだ)

 

●美意識は『粋でいなせ』

『粋の深川、いなせの神田、人の悪いは麹町』と言われていたらしい。(遊船唄の『佃節』の一節)

 

『粋』とは、洗練された格好良さ。心意気。人情味。純粋さ。
『いなせ』とは、『粋』に気風と威勢を足したようなもの。

 

(ふむ。ボクは深川っ子なのだが、分かるような気がする)

 

●代表的な江戸弁

『てやんでい』 → 『何を言ってやがるんだ』
『べらぼうめぇ』 → 『馬鹿野郎』
『あたぼうよ』 → 『当たり前だ+馬鹿野郎』

『このすっとこどっこい』 → 『この間抜け野郎』

『おてめぇちの顔出す所じゃあねえ。すっこんでろぃ』→『お前の出る幕じゃないよ。引っ込んでな』
『この唐変木(とうへんぼく)』→『融通の利かない人や気の利かない人のこと』

 

(ふむ。言ってるな。『なに言ってんだ。馬鹿野郎』と。とはいえ、関西でいう『アホか』というノリに近いのだけれどね)

 

●表す川柳

『江戸っ子は五月の鯉の吹き流し。口先ばかりではらわたはなし』

 

(意味)

「江戸っ子はキツイ口調でものを言うけれど、お腹の中に何かを残したり悪巧みをすることはない」

 

(ふむ。おっしゃる通り)

 

●発音の連母音変化
母音が続く言葉の発音を手短に済ませようとする。

 

(例)
『無い』→ねぇ
『お前』→おめぇ
『太い』→ふてぇ
『寒い』→さみぃ
『悪い』→わりぃ

 

(ふむ。言ってるな。でも、『ふてぇ』は使わない)

 

●いまは江戸っ子とは言わず、地域別に呼ぶ
神田っ子。下谷っ子。本所っ子。深川っ子。など。

 

日本全国それぞれの地域性があるものだよね。個人の性格や育った環境、教育や習慣等もあるけれど、脈々と受け継がれた血というか。秘密のケンミンSHOW的に。

 

そういえば。昔、ある人から『お江戸さん』と、冗談交じりに呼ばれていたことがある。しばらくして『たっくん』に落着したのだが。それもまた、いいね。

 

ところで、冒頭の江戸っ子丸。
春さん(船頭)は御坊(和歌山)の人なのに。なぜ、そう名付けたのだろう。今度、聞いてみましょうかね。

 

さ。明日も頑張ろう。粋でいなせに。全速力で。

個性。
この出し方に関するご依頼を頂くことが多い。

 

そんなの簡単なのでは?と、意外に思われるかもしれないが、執筆、営業(販売)研修や会議と。いや、昨日も京都での営業研修でお話させて頂いたのだが。

 

ここにある背景は、周知の通り。
『溢れかえる情報量の中、個性を出さなきゃ生活者から認識されない』。『業界内で生き残れない』というような。

 

ふむ。格差社会的な。

 

それゆえ、『個性(自分)を出せ!論』が数多だけれど、言い換えれば、『みんなで良くなろう』という旧来の思想、いや、全体主義的なノリは通用しない世なのだよね。

 

業界全体が右肩下がりなのだから、みんなと同じじゃダメだろ的な。少子高齢化により消費者数が減り続けるのだぞ的な。

なので『一億総活躍プラン』も国民に不評なのだと思う。『おいおい』と。

 

 

話がやや拡張した。戻そう。

 

さて、『個性の出し方が分からない』とは、何だか不思議にも思う時がある。その人ごとに個性があるのだからと。企業、店舗にしてもそうで、確かな理念があるわけで。

 

なので、ご依頼頂く研修や会議ではスタッフの方々との対話をし進めていくのだが、どうも業界の風習や自社文化に合わせようとする傾向が見てとれる。『こういう風にしなくちゃいけない』というような。

 

ようするに、業界や自社組織という領域から外れることに抵抗を感じてしまうのだろう。『こんなことしたら、笑われるんじゃないか』的な。『そんなことしてるから結果が出ないんだよ。とディスられる』的な。はたまた、『なんかウチっぽくないぞ』的に。

 

なので、無難に、と。

とにかく領域外にはみ出さないように、と。

 

ふむ。ここにある文脈は、同じ日本人として分かるような気がする。

『個性的になれ!』とは言うが、出したら小言を言われかねないというか。何をしても、いちいちケチを付けられるというか。

(そう言う声の主との『好みや感性、価値観の違い』というケースも多いのだが)

 

これでは誰だって嫌になってしまうわけで、無難至上主義的なバイアスが強化されていくのだろう。(『個性の出し方なんて、習ったことがない』という台詞を聞くケースもあるけれど)

 

では、個性の出し方だが、この4つを柱にすると、あなた色が全面に滲み出やすい。そう伝わりやすい。

 

1.自分なりの情報分析
2.自分らしいコンテクスト(文脈・背景・状況)
3.自分の体験
4.自分が好きなもの、得意なこと

 

ようするに、自分というフィルターを通すのだが、いずれもあなたの思考回路を経た言葉や文章が生まれる。いや、あなたにしか創れないといった方が正しいだろう。

 

たとえば、『豊かさ』というものは曖昧極まりないが、上記1~4を組み合わせ、編集すると、あなたの思想、哲学、価値観等が込められたものが現れるだろう。

 

すれば、『私の仕事は人々に豊かさを提供している』という時、その根拠はあなたにしかないものであるはずだし、そこには確かな個性があるはずだ。(余談的だが、それに同調、共感してくれる人が、あなたのお客さんになりやすい)

 

さらに付け加えれば、ここでいうフィルターとは、正しい、間違いは関係ないので存分にやって大丈夫だ。(ただし、倫理や一般常識から外れるものは避けるべき)

 

人は個性がある所に集まる習性がある。類は友を呼ぶ現象だが、言い換えれば、無個性では埋没してしまう。業界に右へ倣えも同じことだけれど、どうしても、ね。

 

そうそう。個性を出そうとすると、どうもお茶らけてしまう。普段使わない言葉遣いをしてみたり、軽いノリを演じてしまう。という声もかなり挙がるのだが、そこは等身大の自分で。

 

さ。締切厳守。明日は原稿を頑張る。全速力で。

『反省なんて、しなくて良い』。
個人的には、そういう考えの持ち主である。

 

いや、この言葉に対する認識によるものなのかもだけれど、どうも過去にこだわるニュアンスを強く受けるので。

 

というのは、3つの理由から。

 

ひとつは、自戒の念に駆られてしまうと思うのだよね。『あの時、こうしていれば』。『あの時の、あれがいけなかった』というような。

 

これが過剰になれば、心理学的には自己否定(現実を受け入れられず、逃避し、善悪の判断を失う)に繋がると言われるけれど、これは好ましくない。

 

また、『時計の針を戻したい』と願えば、その時間は辛く、苦い。集中力や気力も欠如しそうだし、仕事に身が入らなくもなりそうだ。

 

二つ目は、物事とはそれほど単純ではないということ。

『どちらかが一方が悪い』ということは、概ねないというか。そういう二項対立的ではないと思うのだよね。何事も。

 

本当は幾つもの背景や一面が絡み合っていたりするわけで。なので、ある一人が全てを背負わなくても良いと思うのだ。

 

三つ目は、同じようなことを繰り返すだ。

反省とは、一時的な強い感情を伴ったりもする。もう繰り返さないぞ的な。

 

でも、三日坊主の可能性もあるのだよね。やがて、誰かのせい、何かのせいにして、『あれは仕方なかったことだ』と。または、『運やタイミングが悪かったのだ』という状況面に責任転換をするかもしれない。

 

そう捉え方を180度転換するうちに、もしかしたら、誰かを憎む感情が芽生えてしまうかもしれない。

 

人は苦を伴う感情に支配されることを最も嫌う。なので、転換とは精神安定剤的になり得るのだろうし、ゆえに『二度あることは三度ある』という諺があるのだろうとも思う。

 

ようするに、反省をしても良いことゼロだと思うのだ。

 

一方、こういう発想が大事なのだと思う。
『そこから何を得るか』というような。これまでの自身に足りないモノを認めることかもしれないし、カスタマイズするというか。

 

すれば、『あの時』とは必然的に変わるはずだ。何もかもが無意識レベルで。それゆえ良い結果に恵まれる機会が増えるだろうとも思う次第だ。(人によっては、これを『反省』と定義されるかもしれないが)

 

誰もが悲しむために、苦しむために、生まれてきたのではないと思う。生きる喜び、生きがいを味わうために生まれてきたとも。

 

だから、誰もが笑顔でいる自分を望んでいると思う。周りの人を悲しませるより、笑顔にしたいとも思っているはずだ。

 

古今東西、『心のありようで幸せにも不幸にもなる』と言われるが、そういうことなのだと思う。それ次第で運を引き寄せたり、常にプラスに包まれたりと。

 

そういうボクも、こう偉そうに言える身分でも、立場でも、人に誇れるものも何もない。ただ、考えないより考えた方がマシだと思うのと、そう心掛けるだけでも僅かに緩やかに自分の器が大きくなりそうというか。身の丈を引き上げられそうというか。そう思う次第である。

 

さ。いまを生きよう。柔軟に。健康に。全速力で。