こういうのってつい物真似したくなるのは何でだろう…

川村元気 作ベストセラー
「世界から猫が消えたなら」を映画化。
主人公僕を演じるのは「るろ剣」の佐藤健
監督 永井聡
あらすじをジオラマで解説

僕は郵便配達員の仕事をやっていた
仕事が終わり家に帰れば独りで映画を見るのが日課で当たり前の毎日がこの先も続くのだと思っていた。今日までは

配達の途中、僕は頭痛にみまわれ転倒した
医者に診断してもらうと末期の脳腫瘍で
もう長くないと申告されたのだ

死刑宣告を受けた様な気分で僕は家に
帰る

自宅でもう一人の僕が現れた

悪魔は僕に「お前の大切な物をこの世から消す事で寿命を1日延ばしてやろう」

悪魔は手始めに電話を消すことを勧める

そう電話といえば僕には間違い電話がきっかけで縁が出来た彼女がいたのだ。
つまりそれを消すということは…
悪魔は電話を消した。僕は彼女の元へ
向かうが彼女はキョトンとした目で僕を見る。まるで他人の様な扱いだった。

悪魔の言うことは事実だった
この世から電話がなくなるのは僕と彼女との繋がりもなくなる事を意味していたのだ
悪魔は次に映画を消した。
それに伴い映画館が消え同時に映画通の友人との繋がりも消えてしまったのだ

悪魔は僕に告げる。
この世界から猫を消してしまおう

僕にとって残された唯一の繋がりである
猫さえも消してしまうのか…
そしてそれらが消えた世界で僕は一体…
ぴょこっと顔出してる猫好きな自分にはこの顔を見るためだけに何度本屋で表紙をみたことか
そんぐらい気になってた本作ですが
先に言います。原作小説全く読んだ事がない状態で映画観に行った一見さんです。
映画見終わってから調べました
CMでとにかく泣ける映画と
ネットの評判で「観終わった後貴方の世界を変えてくれる」との絶賛ぶりで
泣ける映画関連で言えば「麒麟の翼」や感想まとめる前に公開が過ぎレンタル待ちの「母と暮らせば」の時はレイトショーにも関わらず満席に近い上殆どが年配者で劇場からは涙をすする声で満たされました。
今作、深夜9時からのイオンモールシネマレイトショーへ足を運んだら今回も多い客の数でした。(流石に年配者さんは0でしたが(;^_^)
ただし、CMやネットニュースでの宣伝と異なり、上記で挙げた2作と対称的に
劇場からすすり泣きみたいなのは
終始起きてませんでした。
時折、スクリーンの近くから「チッ!」て明らかに劇中の物ではない音が鳴ったり
客層も関係してるんでしょうけど本気で泣こうと思って来た客は
全体の10分の1程度の真面目なカップルぐらいで後は多分シビルウォー等入れなかった人が観に来てるっていう相性もあるのか
その二人の内、彼氏の方は降りてくる私含めた客一人ずつ たっぷり殺意を込めた目力で睨むという(これ映画の話しではなく実際に映画観に行った際の現実の話です)
一般とは真逆なギスギス感で
終わった時の空気は完全に凍り付きでした
その時の様子を漫画の1コマで例えたのが

さてここからが本題いつもの


本作の監督を勤める永井聡さんは
実は映画よりCM監督専門の印象で中学の時に放送してた「ファンタのそうだったらいいのなぁ♪」シリーズという学校で誰もがこうなったらいいのにとシュールな映像(ヤギが教室に乱入又は先生がUFOにさらわれ自習で終わった3年間)で見せてくれるのでお茶の間ながらも楽しませてくれた思い出や
今回の脚本を勤める岡田恵和さんの代表作は2013年放送の「泣くなはらちゃん」や実写版「ど根性ガエル」等見て良かった印象のドラマ等を手掛けていました。
今作 世界から猫が消えたならを無理やり「せかねこ」に略しながら語らせると
動物ネタだから可愛いペットとの交流描いて最期死んでおいおい泣くようなフランダース的なありきたりのストーリーではなく
病にかかり絶望状態の主人公が、悪魔との契約で寿命を延ばす代わりに親しい人との関係もなくなっていく
似たような感じでいえばドラえもんでは
ジャイアンにいじめられる毎日に嫌気をさしたのび太君が最終的に皆消して独りきりになる話や
世にも奇妙な物語の名作篇リメイクで放送された「思い出を売る男」等設定事態は
昔からよくあるタイプ(泣ける系でいえば
思い出を売る男の方が傑作だと思ってます)
原作では感情移入しやすいよう
主人公の名前が基本設定されてなく
一人称「ボク」のままなのでいわゆる
アドベンチャーゲーム的に自分と置き換えてる為に意図的にそうしてる手法
冒頭、脳腫瘍の病を宣告された佐藤健が
家に帰ると 悪魔ことヴェノム健 が現れる。
同じ姿をしたもう一人の自分こと
誘惑者として役割と顛末から
ドッペルゲンガーとメフィストフェレスを足して2で割ったような感じの存在で
冴えない感じの主人公とは正反対のはっちゃけた菅田将暉テンションでの演技自体は悪くないし表と裏を表現する狙い目なのは明らかですが
問題は演出に恵まれてないところで
るろうに剣心一作目ラストで佐藤健君が見せた殺人鬼時代の人格が出る佐藤健君の二重人格の演技は上手いの一言なんですがリアリティを維持してきて急に漫画チックな呪文演出が相まってギャグっぽくみえちゃうアレ以来の他に撮り方がなかったのか
演出が今回も出ます。
ヴェノム健君の登場の仕方が全体的にタメ
がなく漫画デスノートの死神リュークが後ろから声をかけて振り返ると立ってるJホラー演出に対しコチラは家に帰るといつの間にか上がり込んでくつろぐ友人的に見え
もう一人の自分が現れたという有り得ないシチュエーションの怖さはなくほのぼのとしたBGMが拍車を掛け特に電話鳴った時にウォッ!(゜Д゜;)とビックリしてるのを見た瞬間からこのヴェノム健の存在感が軽い
この場面、本来ホラーとして成立させ
音楽も不気味なBGMにするもしくはなしで電話鳴ったら主人公の健君だけビックリして「電話鳴ってるぞ」と言わせてほしかったぐらい見てて他に撮り方なかったのかなぉ?と思っちゃいました。
ただ原作のポイントであるこの世から物を消すという描写を映画にした意味があると納得でき
周りのスマートフォンや公衆電話がドロドロに溶け出しそれに佐藤健君が驚いてるのに対し回りの人達は平然としたまま周りのソフトバンク的な電話会社の看板が風景ごとパカパカ変わったり後でこの世から本屋が消える際に本棚の本がパラパラ~と次から次へと移動していくのは
映画版サイレントヒルの現実世界から
裏世界へ以降していく場面を彷彿させる
ギミック演出で原作小説の場面をうまく映画に置き換えて見せてくれてるので正直
期待させますがこの二カ所だけで
そっから明らかに分量が減ってきてしまうので全体こういうギミックを維持したまま進んで欲しかったところですが
消してしまった事でその対象物がキッカケで出来た彼女や友人との関係がなかった事になっちゃうところは「ドラえもん」でのもしもボックスを使った後 のやんなきゃよかったのにな感は出ていました。
実を言うとこの映画と観客との間でも連動するある要素があるのですが後程
金ちゃんこと浜田画伯演じる映画オタクこと勤めてるレンタル店と名前が似てるからツタヤとあだ名付けされるタツヤくんはこの映画の根幹「繋がり」のテーマに関わる重要なエピソードで、金ちゃんを演じた際の憎めない愛嬌の良さは活かされ、共通点である映画が趣味だから付き合ってるだけではなく佐藤健君に映画愛を語るくだり「特に映画は∞無限だ」は名言で
佐藤健君と互いに映画について語り合う場面は映画に限らず漫画やドラマ等のエンターテイメントについて語り合って互いのネットワークが広がる
オタクって本来素晴らしいんだ!
ネガティブなイメージとして描かれてきたオタクへの良いフォローとなっています
(ただ話し上、彼の映画愛について引っかかる台詞がありますが後程)
このように彼と親しくなるに連れ最初の彼宮崎あおい演じる彼女とは既に距離があったのに対し友人とは今もなお親しく
「俺もうすぐ死ぬんだよ」と言われ最初の「そうなんだ…」と対の反応を示すタツヤ君との関係が消えてしまい繋がりである映画という趣味以上に取り返しのつかない物を消してしまったんだと
コレは決して台詞ではなく健君が映画鑑賞してるTVのモニターがスウッと消えていく際の健君の後ろ姿がなんとも痛々しく
背中が泣いてるぞ(;_;)の孤独感が表現されています。
この映画と原作が最終的に描く到達点は
コミュニケーションの問題
主人公の健君の脳腫瘍は悪性の為宿命上
完治することは出来ない現実に絶望した
健君が病院内を叫びながら外へ走るくだりは健君の脳内ビジョンでしたが実はアレこそが本来の健君の叫びですがそれをしなかったということは健君の心がガラスのひび割れの様に壊れ初めてる何よりの証拠で
その後に現れたもう一人の健君は彼の心のどこかで運命を呪い生まれたダークサイドであり繋がりを消していくのも人としての心がだんだん壊れいく=自暴自棄になっていく事へのメタファーで
周りの物と同時に知人との繋がりが消えていくのも絶望した自分自身が無自覚に人との繋がりを閉ざして遂には自分の殻に閉じこもってしまう状態に追いやってしまう
彼の言う寿命が1日延びるとは実際には
虚無へ近づく意味で
自分自身のドッペルゲンガーに出逢うと
この世から消されてしまう都市伝説を反映しているあたり健君自身が「もう自分には未来がない、だったら自分で消していけば何も感じることは無くなる、心なんていらないんだ」と自棄になりもし世界から猫を消していたら後には何も残らない
戦国BASARA3の石田三成が家康を倒し復讐を成就した代償で残された繋がりを自分の手で葬ってしまい精神崩壊するバッドエンドみたいな悲惨な結末となっていたところでしょう。
唯一残された繋がりであるキャベツちゃんこと世界から猫を消すか消さないか選択を強いられる訳ですが
しかしどんなに捨てようが真に大切な物
既に他界した母親を含め家族との
心の繋がりであり生活を共にしてきた
「猫」を消すことが出来ず。
母親が自分に残した手紙を読んで彼が真に消さなければならなかったのは破滅へと向かおうとする自分自身であり最終的に悪魔との最後の契約は現実を受け入れ自分自身と向き合い余命を精一杯生きるということであり。
今まで消えた物が復活するのも全て大切な物だった閉ざしていた自分の殻を破りそれらが外の世界へ出た証である
…とこの様にファンタジーながらも現実の社会問題のメタファーとして気付かせてくれるならば文句なしの傑作だと思いました
ここまで語れば多少の荒があれど☆五つと自信を持ってお勧めしたかったのですが
映画のテーマがそこに到達出来ているのかコレが別問題で本作大切な物を消す事で同時に繋がりが消える本作同様
映画と観てる観客との間である物が消えてるという連動要素が起こり結果的に本来のメッセージを帳消しにしてる感が拭えません。
「ツタヤ!タツヤだ」エピソード後
映画解説で浜村淳さんも指摘してた
宮崎あおい演じる彼女とアルゼンチンに
旅行するエピソードに唐突にというかこの話に入る手前のプロセスを省いて突入し
しかもさっきまで関係が消化された筈の宮崎あおいが健君と一緒にいるあたりから
混乱し初めて何でだろう?と後で調べるとどうやら回想シーンの様な扱いらしい
ですがこのシーンに入る経緯が飛んでる為、本来の話しの時間軸がズレ初めてる
原作では映画の後 時計⏰エピソードに
移るのだからせめてさっきまでのギミック演出を活かし彼女とタツヤ君との繋がりを消えた佐藤健君の周りの時計が逆回転し始めてからこのアルゼンチンエピソードに入れば回想シーンとして成立するのですが
それ以前に宮崎あおいとの出会いのエピソードについてもう少し掘り下げるべきでアルゼンチンに限らず海外旅行の旅費ってはっきり言って馬鹿にならない額でいくら仕事で給料貰ってるとはいえせいぜいディズニーランドが限度なので懸賞や福引きで当たったからとか台詞でもいいから説明を足すべきでした。
その中で合うトムさんとの出会いと台詞
そしてこのあとの顛末後の宮崎あおいの
生きてやるW(▼∀▼)
名シーンといえるのですが先程のプロセスなし問題のせいで、鑑賞中の自分はてっきり宮崎あおい似のオnewの彼女いつの間にかゲットしてたのかなぁ?とか
居場所なくなったんだから国外逃亡しよ~
と勘違いしながらみて
前半まで普通に鑑賞出来たのに後半から
明らかに本来の場面の順序を入れ替えながら語ってるせいで原作読んでない自分には
?マークで鑑賞してたしかといって後で
原作知ってから振り返ってもアレ?
そもそもこの話し何の件がキッカケで
主人公悩んでたんだっけ?やこの話しの
語ってる部分がどこまでが本当の話?
ひょっとして今までのは全部主人公の妄想で後で実は殺人鬼でしたと病院で目覚めるルートに走るのかなぁ?
と解釈に困りながら終始見ていました
何でこうなるのか改めて考えると
アルゼンチンロケでの反動
…とあからさまに前半のギミック演出の分量が減ってきてしまうのも海外ロケで使った費用のしわよせが後半来てる感じ
話の順序云々より演出の荒が
フォロー仕切れないぐらい露出し始め
前半でもちょっと気になっていたのが
カメラアングル
後半から明らかにグラグラ揺れ始める
映画「青鬼」を遥かに上回る気持ち悪さで
多分減少せざるを得なくなったギミック演出の頻度を補う目的で主人公、佐藤健君の
精神の不安定さを表現しているとフォローできますが
正直、涙の代わりに飲んだジュースが
口からリバースしそうな程、酔いました…
他に演出面で気になったのは
アルゼンチン以外、話し全体が雰囲気ではなく画面全体が薄暗く演者達の表情が薄暗い三池崇史版「逆転裁判」後半での
シルエットツッコミ場面以来で
お陰で表情が読み取れない=どういう気持ちで演技してるのか解りにくい…
これは恐らく猫がピョコンと覗かせてる
薄暗い明暗の世界を忠実にしてるからで誰もが登場人物に入り込ませるというサウンドノベルでいうとこのシルエット的に見せたいのでしょうが
それだと正直、映画にした意味がなくなってしまう致命的問題が起こってしまいます
あとシナリオの順序を変えた事で本来伝えようとする場面が結果違う場面に曲解してしまう作り手の意図でないことだけは述べますが観てるとそう感じてしまう
母親の病名が原作では癌だと名記されてますが映画では薬がアップになるだけで
名言されずその前に猫アレルギーと説明はれてるのでどういうことになるかというと
母親の病気の原因猫じゃないのか?問題
これだと猫アレルギーで死んだようにも感じえっ?じゃあ猫が原因だとすると
あそこでリトル健君が猫拾ってこなかったらお母さん死なずに済んだってこと?
要は一番の原因 自分 じゃんかに見えて
さっき述べたように主人公が精神病院で
目覚めるサイコサスペンスホラー展開になるのではないかと曲解しながら観てしまいました。
なので作り手の意図してるメッセージが
観てるコチラに上手く伝わらず真逆に
受け取ってしまうすれ違いの様な現象が
原作読んでないと尚更起きてしまう
作り手にその自覚があるのでしょうが
ここから一番気になった濱田岳さん演じるTS○TAYAじゃねえよタツヤ君の台詞
「映画は考えるんじゃない感じるんだ!」
…とオタクならではの名言ぽく叫ぶんですが台詞そのものは悪くはないし
映画に限らず美術等の作品本来の楽しみ方で正論です。
ただこういうメタ的な台詞って映画全体に説得力があれば機能できるのであって本作の演出上
映画の楽しみ方ってそういう事?と疑問に感じる程説得力が残念ながら機能していない
「感じる」とは?
タツヤ君の言うメタ台詞は正論である事は間違ってないのですがそもそもの話
何故映画を観て感じるのか?
「町山智宏の映画を何故観るのか?どんな映画を観るべきなのか?」の回で町山さんが「全てのエンターテイメントとは心に溜まったフラストレーションを作り手自身が発散させる為にある」と語っていて
その作品の中で描いてる要素に観客が惹かれ観ている内に自然に映画の中に入り込む事でコチラのフラストレーションが発散する「映画の快楽」が起きることこそが
タツヤ君の言う映画を感じるのであって
ただ闇雲に観て「あー面白い」って感じるドラッグ的な意味ではないと思うんですけどね…
それだったら今も8、6秒なあの芸人二人も今も現役でレギュラー化してる筈ですからね
なので作品で観客が感じることこそが
作り手と観客が同じフラストレーションを発散が一致することでメインテーマである
「繋がり」の筈ですがそういう繋がりが
本作から明らかな欠如されてる
そもそも欠如されてるのは何か?
5W1H(いつ?どこで?誰が?なにを?どうやって?)
映画上作り手と観客との「繋がり」で
情報伝達に必要な基本要素が
本作を映画化する際何らかの都合上
結果的に消えてしまっている。
なのでどういうことになるのかというと
素直に感じる事が出来なくなる。
話本来の語る順番を後半からダイジェスト的に変えた事で
観ている間、ん?何でだろう?とずっと意識することになって話に付いていけなくなってしまう
逆にいえば、原作小説の場面を強調する為の補完でホラ!原作のこの場面だよ!という見方は出来なくはないですが
ただそれってさぁ‥
映画に置き換える際の
作り手のメッセージと受けとると
「ただ面白く観られたい」という自意識的
にしか機能しておらず
ハッキリ言ってメタ構造が映画全体の演出の安易さの言い訳になってる。
観客を感じさせることこそが作り手の仕事
であってミステリー物以外で考えさせちゃうのは失敗です。
なので正直、後半から退屈でした。
後半からのツッコミどころが多い泣かせ展開はもうハッキリ言いますよ
キン肉マンレベルのツッコミですよコレ(;^_^A
前半は楽しめ後半からおかしくなる展開はMGSVの一章と二章
以来でしたね(アレは監督と会社側の確執のメタファーですが)
まとめ
原作小説読んでる前提で目的化し過ぎて
映画を造った為、前半が普通に見れたのに対し後半からは強引に話をまとめるので正直、散漫な印象が拭えません。
ですが主人公にとって一番の問題に向き合い克服され解決しているので
惰性的に終わるドラマ「わたしを離さないで」よりはマシだと思ってます。
ただ制作費の都合なのか
問題が解決した際に消えていた物がいつの間にか戻ってる夢オチ的に処理されてる感があるのでせめて前半のギミック演出を巻き戻しみたいにしていれば観るものに映画的なクライマックスが増したと思うのですが残念な辺りです。
ですが坂を自転車で下るのは冒頭の対になっている清々しい佐藤健君なので
映画として理想のオチなんですが
勿体ないのはその後ですね
家に入るところで終わってれば良い結末だったのですがそのあとの「ありがとう」
ってなると急に蛇足感が
24時間ドラマ「はなちゃんの味噌汁」でも味噌汁のところで終わってれば良かったのに以来勿体なかったです。
やはり一番この映画を観て良かったのは
「映画を作る際に作り手と観客を繋げるには辻褄という名の整合性が必要なのだ」と
感じたのが一番の収穫でした。
なのでそういう意味でもお薦めできます。
あと個人的にせっかくだから宣伝に本作のパロディコントをTVとかでやって欲しいですね
結論「世界から猫が消えたならパロディ」
「世界から筋肉が消えたなら」
を宣伝用に作ってみるのもアリです。
お薦め度 ☆☆☆