『貧困の経済学 上』 マーティン・ラヴァリオン著 柳原透監訳 (2018年9月20日第1刷)

 

 

 

◇ 第I部 貧困の思想史 ◇

 

 

 

第2章  ③貧困に関する1950年以後の新たな論調 (第2章は①から③まで)

 

 

①   は↓

 

②   は↓

 

 

 

2・3  発展途上地域における貧困

 

 

第二次世界大戦の後、開発は大きな課題としてあった。戦災を受けた欧州の再建も課題であったが、他の地域での深く根付いた極度の貧困のほうが大きな問題であった。大戦後に新たに独立した国の多くで、政府は当初から貧困削減に長期にわたり真剣に取り組む姿勢を持っていたようである。

 

 

■ 急速な工業化のための計画

新たに独立した国々の経済は農業を中心としていたが、政策立案者は豊かな国々の経済は非農業部門を中心としていることに気付いていた。農業のシェア(1人当たり所得で見て)最も貧しい20か国では40%であるのに対し、最も豊かな20か国では1%に過ぎない。このパターンが、しばしば 「産業転換」 と呼ばれるものの根幹をなす一要因である。

 

貧困の経済学 上 p148図2.4

 

食料は人の生存にとって必須であり、経済活動が農業から始まるのは当然のことである。しかし、同じ論理が働いて、経済が成長するにつれて農業および農村経済の生産のシェアは低下する傾向がある。経済成長に伴って食料への支出に向けられる所得の割合は低下する傾向があるという、一国レベルでのエンゲルの法則が働くからである。

 

新たに独立した国々では、民間の経済主体の間での協調の失敗(Coordination failure)が深刻な障害であると見られていた。経済活動における相互の繋がりのために、もしすべての企業が投資をすればすべてが収益を上げられるが、他企業が投資をしないならどの個別の企業も投資をする誘因を持たず、発展は起こらない。これは一種の貧困の罠である。

 

この場合には、政府の介入が有益である。 「軽い介入」 では、政府は、民間企業間の協調に資するように、企業間の交渉にあたり情報を提供し、また契約の履行を助ける。 「重い介入」 は、意思決定を民間に任せず、中央計画により統制や国有化を行うものであり、開発のために多くの部門で同時に大規模な投資をする必要があるという 「ビッグプッシュ」の考え、と結びついていた。

 

新たに独立した国々の多くで、政策立案者は当初は 「重い介入」 路線を採った。いくつかの理由があった。ソ連の経済が成功しているように思われたことが、中央計画を魅力あるものにした。植民地としての体験があったため、 「自由市場」 を良しとする議論に対して猜疑心が抱かれていた。制限のない貿易から利益を得るのは豊かな国のほうであろう、と考えらえていた。生まれたばかりの製造業は、少なくとも当初は収穫逓増局面にあると見られ、急速な労働吸収の見込はないと見られていた。当初は、閉鎖経済の下で中央計画により資本集約度の高い工業部門を推進することが重視された。

 

 

■ 計画への批判

当初から、 「重い介入」 路線には懸念が抱かれていた。ビッグプッシュですべての部門を育成しようとするよりも、他部門での活動を刺激するような主導部門を個別の状況に応じて特定するほうが効果が大きいであろう、との見解が示された。ただし、カギとなる主導部門を見つけるのは容易ではなかった。

 

計画において、閉鎖経済では食料供給が都市の成長を制約するであろうというアダム・スミスの警告が著しく軽視されている。工業化が推進されるとき、農業の余剰が用いられ所得が生み出されるのが通例であり、貧しい人々が工業化を賄っていることになる。工業化を優先することで、例えば電化や道路建設といった農村インフラ整備など、他の分野の政策がないがしろにされている。

 

中央計画を成功させるのに必要な行政能力が、貧しい国々には備わっていないことが多い、という問題もあった。大きなインフォーマル部門を抱える経済では、民間企業間の協調のために公式の規制や統制を重視した方針は、実施と実行確保の能力を考えると現実には無理なことであった。国有化が無理であったことは言うまでもない。

 

第二次大戦後に新たに独立した国々での計画作成にあたって大きな影響を持った考えは 「構造主義アプローチ」 と呼ばれるようになった。

 

 

■ 援助業界と開発経済学の誕生

計画策定者たちは、成長目標を達成するには高い投資率が鍵となることを、経済成長論から学んだ。貧しい国では、それだけの投資資金を得るには国内貯蓄だけでは不十分である。外国援助が解決策だと見られた。

 

1944年にニューハンプシャー州ブレトンウッズで開催された国連通過金融会議において、国債復興開発銀行(世界銀行)と国際通貨基金(IMF)の創設が決定された。多くの二国間援助プログラムも出現した。

 

新たな援助業界は知見を求めており、それに応えて1950年代に開発経済学が台頭した。アーサー・ルイスが古典派経済学の基礎の上に経済発展のモデルを構築し、強い影響を与えた (Lewis 1954)。経済は二つの部門からなる二重構造を持つ。生まれたばかりで主に都市部にある 「近代」 部門と、貧しく主に農村部にある伝統部門、の二つである。伝統部門には、1年の大部分の期間に大量の過剰労働が存在する。発展過程では、近代部門がその利潤を再投資して拡大し、伝統部門の労働を吸収する。

 

1970年代には、開発経済学が分野として確立した。この時期には、発展途上地域の貧しい人々も経済行動において合理精神に則しており、欧米で個人の合理精神を想定して形成された経済学は途上国の現実にも適応可能である、との見方が広く受け入れられるようになっていた。この見方によれば、異なるのは資源や制度である。非効率は制度によるものであり、所与の制度の下で人々は最適な選択を行っている。

 

 

■ 不平等に再び注意を向ける

ほとんどの経済学者が 「発展途上国」 について最初に学ぶのは1人当たりGDPが低いということであり、したがって、新たな分野である開発経済学の最大の関心が1人当たりGDPを高める方法に向けられたのは何の不思議もない。1950年代には、政策立案を支える分析を提供すべき、経済成長論が新たな関心を呼び、理論面での重要な前進が画された。

 

第二次貧困啓蒙期に至って、発展途上国内部におびただしい極度の貧困とはなはだしい不平等が存在することが、学会の主流から大きな関心を持たれるようになった。工業化も都市化も途上国の貧しい人々にとっての助けとならないとの見方が、段々と広く受け入れられるようになった。

 

第二次貧困啓蒙期、 「第三世界」 での貧困者の増加についての一般の関心も高まり、対外援助も増大した。経済学者の中では、ダッドリー・シアーズが、分配とりわけ貧困に注意を向けるべきことを早くから唱え、影響力を持った (Seers 1969)。

 

1人当たりGDPの低さが新たな開発経済学研究で用いられる最初の数量データであった一方で、研究者たちが発展途上国で実際に目にしたのはひどい貧困であった。やがて、 「貧困削減のために経済成長は必要条件ではあっても十分条件ではない」 という合意が生まれた。

 

厳密に言えば、この見解は誤りである。この見解が言おうとしていことは、貧しい人々が成長過程に関わり貢献しうるための(政策を含む)諸条件が備わっていれば、成長は貧困削減のための潜在力を生み出す。

 

世界銀行の1990年の 『世界開発報告』(World Development Report : WDR)(World Bank 1990a)は 「貧困」 と題され、開発政策関係者に影響を与えた。その刊行の後すぐに、 「貧困のない世界」 が世銀の最高の目標として掲げられた。

 

1990年代と通じて、貧困に関する多くの実証研究が行われた。この時期には、とりわけ途上国において、検討される政策の幅が広くなった。貧困への効果を考える上で、すべてが検討の対象とされたが、それには危うさも伴った。政策への目的への手段の明確な割当がなく、政策のマヒが起こりかねなかった。

 

20世紀末までには、貧困に関する政策論調において、200年前の見解からの完全な逆転が起こった。貧困を発展にとって必要なものと見るのではなくて、貧困を解消することが開発の主要目標と見られるようになった。

 

 

■ 発展理解における偏りの修正

ここまでに要約した発展についての見方の変遷が起こったのは、成長中心の見方をバランスの取れたものに修正しようとする四つの試みがあったからである。

 

試みの第一は、農業と農村を新たに重視することであった。農業の収量が低いがゆえに農民は貧しいのであり、農業を政策で支援するのはむだである、との議論が多くなされていた中で、農業の生産性が低いのは、知識の不足、信用や保険へのアクセスの欠如、土地市場の失敗、などの市場や制度の失敗に起因している、と主張する反論が現れた。開発経済学の中で、信用と保険についての市場の失敗は活発に研究がなされる分野となった。

 

1973年ナイロビでの時の世界銀行総裁ロバート・マクナマラによる演説が、農業・農村開発についての見方の修正が主流となったことを示した。経済学者マイケル・リプトンの著作が、そのときまでの見方にあった甚だしい 「都市への偏向」(urban bias)を指摘して、影響力を持った (Lipton 1977)。小農民の発展と再分配型農地改革が重視されるべきことが、効率と公正の両方の観点から主張された。その主張の根拠をなしたのは、農地当たりの産出は小農家のほうが高いという実証上の知見であった。

 

発展理解における偏りの修正の二つめも1970年代に始まった。それは、発展における 「インフォーマル部門」 の役割を重視する考えの台頭であり、国際労働機関(International Labor Organization : ILO)の業務で主要な役割を果たすこととなった。

 

その定義は、近代部門の職を望むが見つけることができず都市のインフォーマルな活動や伝統農業に従事している多数の人々、である。よく知られるようになった一つの経済モデルは、フォーマルな労働の市場の働きが阻害されていると、都市での高失業率が均衡状態として出現する。

 

インフォーマル部門をどうするのかは、引き続く政策課題である。インフォーマル部門の人々の多くがその状態を自ら望んでいることがわかって、政策論争はさらに複雑なものとなっている。

 

発展理解における偏りの修正の三つめは、ジェンダーに関するものであった。ルイスは、 「国民所得を増やす確かな方途の一つは、女性に家庭外での雇用の機会を創り出すことである」 と述べて、拡大する資本主義部門に吸収されるべき過剰労働の一部として女性があることを明確に認めた (Lewis 1954, p.404)。

 

今日では、ジェンダーに関する公正は開発政策の主流の考えになり、就学や経済活動などにおける機会の平等が(手段として、そしてそれ自体として)価値を持つことが広く受け入れられるようになった。

 

発展理解における偏りの修正の四つめは1980―1990年代に起こり、人間開発が新たに強調された。就学が経済面での収益を生むことには合意があり、 「人的資本」 の役割として重視された。貧しい家庭の子どもを就学させることは、もはや公共資源の浪費とはみなされず、成長にとって必須の前提条件と考えられるようになった。開発経済学の主流が、人間開発を貧困削減の進展(1人当たりGDP)にとって最も重要なことと見るようになった。

 

1980年代末までには、東アジアのほとんどの国で広範な人々を益する人間開発への投資が長らく重視されてきたことが、同地域の成功の鍵の一つとして認識されるようになった。

 

国連開発計画(United Nations Development Programme : UNDP)は1990年に 『人間開発報告』(Human Development Report : HDR)を創刊し、GDPの成長のみに注意を向けるのではなく、基礎保険、教育、社会保護、を発展途上国で推進することを一貫して提唱してきた。

 

この第四の修正は、 「ベーシックニーズ」 の観点から論じられた。それほど押しつけがましくなく、したがって多くの人に受けのよい、アプローチは、各人がそれぞれの判断で自身のベーシックニーズを定めそして満たすことを保証することである。そのような自己実現にとって経済面での自由が重要な前提条件であるのは明らかなので (ただしほとんどの場合に十分条件ではない)、このアプローチは所得貧困の削減を重視することとうまく噛み合う。

 

貧困線はベーシックニーズバンドルの費用から導出しうる (第4章で論じる)。貧困とみなされるのは、そのバンドル(財の束)を得ることができないときであり、バンドルに含まれる特定の要素の欠如によるものではない。かくて、ベーシックニーズバンドルは貧困線を定めるにあたっての役割を持つのである。

 

 

■ 貧困に焦点を当てることをめぐっての論争

西洋で訓練された経済学者のほとんどは、功利主義を起源に持つ厚生主義の伝統に成り立つ。彼らにとっては、選好はすべての人に共通である、各人の消費は連続関数により表され、消費は所得と価格により市場で決まる、といった仮定はしっくりくる。道徳哲学は、功利主義により、(その後には)パレート派の厚生経済学により、その影響力はほとんどそがれていた。

 

一つの懸念は、パレート原理に背反することについてであった。その原理を、誰かの厚生が増大すれば社会全体としての厚生は必ず増加する、というように厳しく解釈すると、貧困指標は(マイナスの)社会厚生関数としては不適格である。実際上、貧困削減が唯一の目標だとしても、通常の貧困指標では不十分であり、非市場財の入手可能性や家計内厚生といった追加の情報が必要とされるであろう (第Ⅱ部でさらに論じられる)。

 

しかし、パレート原理の緩やかな解釈もある。それは、誰かの厚生が増大すれば社会の厚生は決して低下することはなく、誰か貧しい人の厚生が増大すれば社会の厚生は必ず増加する、というものである。第Ⅱ部で見るように、この原理は貧困の測定において重きをなす。

 

もう一つの違和感は、実際適用において 「ベーシックニーズ」 や 「貧困線」 が特定される際のいい加減さである。例えば、ニコラス・スターンは、開発経済学のサーベイの中で次のように述べている。 「どの必要がベーシックニーズなおのか、さらにわからないのは、そのレベルがぎりぎりの必要水準なのか」 (Stern 1989, p.645)。これは、答えるのが難しい問いであるが、貧困線を設定するには何らかの判断が求められることは明らかである。

 

ほとんどの経済学者は、分析にあたって滑らかな連続関数を用いることを好むため、 「貧困線」 という考えとは折り合いが悪かった。しかし、貧困が存在することを受け入れるとすれば、少なくとも一つの貧困線がなければならない。哲学者ソラン・リーダーは、昼と夜の区別との類推を用いている (Reader 2006)。昼と夜が存在することを否定する人は誰もいないが、精確にいつ昼あるいは夜になるのかは判断としてしか言えない。

 

滑らかな厚生関数を用いると、通常、代替が限りなく可能であるという仮定をすることになる。すなわち、ある価値のあるものを失っても他の価値あるものを多く得るなら埋め合わせができる、という仮定である。この考えは、功利主義の伝統に従い、経済学者により社会選択問題に適用されてきた。

 

しかし、この考えからは多くの困った問題が生ずる。例えば、次の問いにどのように答えるのであろうか。経済成長を促進するのであれば自由への制約を受け入れるのか、最も豊かな人への利得は最も貧しい人の損失を正当化しうるか、などである。

 

中国の貧困線は1人当たり1日2ドルであるからといって、2ドルを境として個人の厚生の水準が大きく異なることを示す必要はない。公共行動を引き起こすには、当該国での貧困線についての十分な合意が存在することが重要である。貧困解消に向けての一国内の合意を生み出す上で、貧困線が広く受け入れられることは極めて重要なことである。

 

一つの貧困目標についての合意が得られたとしても、それで終わりになるとは限らない。成長している途上国では将来には新たな目標が設定される、と考える方が妥当であろう (中国政府は、最近、公定貧困線を1日0.80ドルから1.90ドルへと倍にした)。世界中に(例えば)1日1.25ドル未満で暮らす人がいなくなったときには、最も貧しい人々の生活水準は今よりも高いのであるが、それをさらに引き上げるように求める声が起こるであろう。

 

経済成長は人間開発にとって必要でなかったかもしれないが、その達成を容易にしたことは確かである。人間開発にとって所得が重要でないと論じるのは無理であり、所得貧困の削減と基礎サービスへのアクセスの改善を組み合わせることの重要さが広く理解されるようになった。

 

 

■ より良いデータ

世界の貧困についての知識は、観察とデータに強く支えられて、大きく前進した。ガルブレイズが見た 「貧困な少数者」 ではなく、 「貧困な多数者」 が存在する。19世紀末のイギリスでのブースとラウントリーの貧困研究の場合と同様に、1990年前後には、世界で10億人ほどが1日1ドル(購買力平価換算)未満で暮らすと知って、多くの人々がショックを受けた。

 

1990年以降、各国の統計局が、しばしばUNDP、世界銀行、国際比較プログラム(International Comparison Program)などの国際機関の支援を受けて、家計調査データや価格データの収集に努め、1980年代からの国および国際レベルでの貧困への取組を進める上での現実理解の基盤を提供した。

 

社会経済データが一般公開されアクセスできることが肝要である。発展途上国の家計調査データの収集を進めた世界銀行の生活水準測定調査 (Living Standards Measurement Study : LSMS)、主に先進国を対象として統一されたミクロデータへのアクセスを可能にしたルクセンブルク所得調査 (Luxembourg Income Study : LIS)、そして米国開発庁その他の援助機関が支援した人口保健調査 (Demographic and Health Surveys : DHS)、などの努力があって段々と改善されてきた。

 

 

■ グローバリゼーションと貧困

 「グローバリゼーション」 という言葉の使われ方は多様であるが、多くは生産要素、財、考え、の国境を越えての移動に関心を向ける。今日では、国際移民への制限を緩和することが世界全体としての公正と効率のどちらにとってもよい、ということは広く同意されている。世界全体として見れば、送り出し国での生産の減少は受入れ国での増大よりも小さいであろう。さらに、賃金格差の縮小を通じて世界の不平等を抑えるのに寄与する。世界の貧困は大幅に減少しうる。移民への制限を緩和することへの反対は、主に豊かな国々で移民制限から利益を受けている人々から生ずる。

 

しかし、グローバリゼーションをめぐる議論の多くは他のことに向けられてきた。すなわち、グローバリゼーションが貧困削減に貢献したかあるいは妨げであったか、が主な関心であった。対外貿易や外部の考えに開かれていることの影響をめぐる多くの論争において、かねてより分配への関心が重要なこととしてあった。センが論じたように、いわゆる 「反グローバリゼーション」 の抗議運動が本当に問うているのはグローバリゼーションそれ自体ではありえない (Sen 2001)。その運動自体が現代において最もグローバルな出来事の一つである。むしろ、その問いはこのグローバリゼーションの時代に引き続き見られる欠乏や生活水準の差の拡大に向けられている。

 

グローバリゼーションを批判する人々は、今日の世界に見られる強固な貧困を本当に気に掛けている。貧困と不平等はおびただしくしかも増え続けている、という印象が広く持たれている。その反対を主張する人々もいる。このような見解の対立をどのように理解すればよいのであろうか。進展はあったものの、データが示す貧困と不平等の現状が理想からほど遠いことは、認めざるを得ない。論争のどちら側も、データの問題にはたいした注意を払っていない。そして、用いられるデータの種類が異なるという問題があり、これは重大な意義を持ちかねない。

 

評価の対立は、文脈の違いが明示されないことによるかもしれない。国により初期条件が異なるので、同一の成長促進政策が不平等に異なる影響を及ぼすことが予想される。同様に、政策改革が所得分配をどのように変えるかも国により異なりうる。それにもかかわらず、どちら側も、文脈を特定することなしに所得分配への影響を一般化して論じている。

 

事実をめぐって論争が絶えないもう一つの理由は、グローバリゼーションの利益の正当な分配について、論争の両側が同じ価値を有していないことである。事実をめぐる争いは、所得は価格などの客観データについてのみではなく、測定に関わる判断についての価値判断が人により異なることにもよる。異なる人々が不平等についての異なる価値規範を持つことは驚くにはあたらない。そして、そのような価値規範が不平等の定義と測定の仕方を決める上で大きく影響することは、経済学でも十分に理解されている。異なる人々の厚生の水準の間でどのようなトレードオフを受け入れるかを決めるのは、経済学ではなく倫理学である。

 

現在の論争で顕著であるのは、価値規範の重要な違いが、世界の不平等に何が起こっているかについての見解の背景にある細やかな方法上の点に隠されている、ことである。大まかに言って、見解の対立の理由は、データにではなく、データを解釈するのに用いられる概念や指標のほうに見いだされる。

 

 

■ 新たな千年紀、新たな希望、新たな課題

2010年にEUは、加盟各国の貧困線未満で暮らす人の数を25%減らすというヨーロッパ2020貧困削減目標を採択した。全世界規模では、ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals : MDGs)の作成が1990年代を通じて進められ、2000年に国連ミレニアム総会で批准された。MDGs目標①には、発展途上地域の1990年の 「1日1ドル」 貧困率を2015年までに半減すること、が含まれていた。

 

MDGsは、全関係者が貧困への戦いに向けての行動を強める上で重要な役割を果たした。実際には、MDGsの発表後に援助額は大きく増え、新たなプログラムでは社会部門(保健、教育、社会保護)そしてサハラ以南アフリカに重点が置かれた。因果関係を証明することは難しいが、豊かな国々が援助を増やし貧困に向けることを奨励することに、MDGsは成功したようである。

 

新たな千年紀になって極度の絶対貧困に対しての著しい進展が見られた。1日1.25ドル(2005年価格)貧困線を基準として、MDGs目標①は、目標年次より丸5年早く2010年に達成された。そして、新たな千年紀になって、絶対貧困に対する進展はすべての発展途上地域に及んでいる。このような進展が継続すれば、2030年までに10億人が極度の貧困から脱出するであろう。

 

しかし、その他の指標を見ると、事態はそれほど楽観できない。全体として、1日2ドルといった高い貧困線を用いると絶対貧困に対する進展は緩やかであった。これは、1日1.25ドル貧困線のすぐ上に 「かたまって」(bunching up)いることを反映している。また、それぞれの国の相対貧困線を基準とすると、進展はそれほど大きくなかった。

また、世界の最貧層が置き去りにされているという懸念もある。例えばバン・ギムン国連事務総長(当時)は次のように述べている。 「世界の最貧層は置き去りにされている。その人々に手を差し伸べ、救命ボートに引き上げなければならない」 (UN 2011)。

 

多くの国で不平等の高まりの恐れが貧困に対してのさらなる進展の望みを弱めている、という見方が広く抱かれるようになっている。著しい不平等は、成長持続も貧困削減も脅かすと見られるようになってきた。21世紀に入る頃からは、人生における機会の不平等を開発への重大な制約として見る新たな主流見解が台頭した。世界銀行の2006年の 『世界開発報告』 が 「経済開発と成長における公平性の役割」 をテーマとしたのはその例証である (World Bank 2006)。

 

これは論調における重要な変化であり、政策立案への大きな課題としてある。1990年以降には、それまでの 「成長のための政策」 と 「公正のための政策」 の分離に深刻な疑問が呈されるようになった。高成長を目指す政策改革の分配面での影響を国民も政策立案者も問うようになった。

 

新たな千年紀に入って、開発政策の内容に大きな変化が見られ、 「貧困対策プログラム」、 「社会セーフティーネット」、 「社会支援」、などと呼ばれる直接介入が重視されるようになった。第Ⅲ部では、貧困と不平等に関わる政策論争を詳しく検討する。

 

2015年9月には、国連総会高級全体会合(国連サミット)で、2015年以降の期間を対象とする一連の持続可能開発目標(Sustainable Development Goals : SDGs)について合意が得られた。これは169のターゲットからなり(1日1.25ドル未満という)極度の貧困を2030年までに根絶することが1番目の目標として置かれた。

 

今日では、今後数十年間に貧困に対してどれだけの進展を達成しうるかが、一国のレベルでも世界のレベルでも進歩を評価する上での重要なものさしであることを、疑う人はいないであろう。

 

現在では、適切な経済・社会政策があれば貧困は削減しうるし根絶さえしうる、という信念が広く抱かれている。貧困は少なからず世界全体としての公共責任として見られ、政府や経済の評価にあたっては、貧困に対する進展が判断基準とされる。第Ⅲ部では、貧困と不平等に対する広範な政策が取り上げられる。