『貧困の経済学 上』 マーティン・ラヴァリオン著 柳原透監訳 (2018年9月20日第1刷)

 

 

 

◇ 第I部 貧困の思想史 ◇

 

 

 

第2章 ①貧困に関する1950年以後の新たな論調

(第2章は①から③まで)

 

 

 

20世紀半ばに、世界での極度の貧困との戦いにおいて重大な転機が訪れた。図2.1には貧困率の2つの系列が示されている。1950年前後に明確な屈折点を見て取ることができる。この屈折がなければ、さらに15億人が貧困状態にとどまったであろう。次のようにも述べることができる。極度の絶対貧困にある人口の比率が今ほど低かったことはない。過去100年ほどの間、極度の貧困を根絶すべしとする声がたびたび挙げられていたが、いまやその見通しが立つようになった。

 

図2-1 世界の貧困率(1820-2005年)

 

このように貧困率が減ろうとしていたのと時を同じくして、経済学や哲学での論調が変わり貧困政策に影響を及ぼした。

 

 

 

2・1 第二次貧困啓蒙期

 

 

■ 貧困についての経済学の新たな論調

第一次貧困啓蒙期と同様に、新たな学問上の論調が貧困政策に影響を与えた。ベンサム流の平均効用最大化目標は、一定の属性を共有する人々の間での所得不平等の忌避を組み込んでいることを想起されたい。重要な仮定は所得の限界効用の逓減である。しかし、その功利主義の目標は、厚生の不平等には注意を払わず、個人の権利や自由についても何も語らない。

 

功利主義への批判者たちにより、近代における正義の原理の定式化において初めて、最も貧しい人々を助けることを倫理上の優先課題とすべきであるという主張が現れようとしていた。

 

多くの学者にとって議論を呼んだのは、「権利」や「自由」それら自体に価値を付与することである。その中で最も重要であるのはアマルティア・センの一連の貢献である(Sen 1980, 1985a, 1999)。根本において貧困とは望む生活を送る自由を持たないこと――センの用語では、「ケイパビリティ」の深刻な欠如――であり、そのような自由は他の何よりも大きな倫理上の価値を有する、という考えは第二次貧困啓蒙期にまで遡るものである。

 

この時期に起こった重要な変化として、所得分配についての関心が生産要素間から個人間へと移行したことがある。所得分配は古典派経済学の1つの中心課題である。リカードによる階級を基盤とする所得分配の特徴付け(労働者階級は労働のみを提供し、資本家は資本から所得を得て、土地所有者は地代から所得を得る)は、19世紀において巨大な影響力を有しており、マルクスによる資本主義の階級分析に受け継がれたこともあって、その影響は社会主義の台頭にも及んだが、時とともに、階級を基盤とする不平等のモデルは現実記述に適していないとみなされるようになってきた。

 

1970-1980代に市場経済がますます複雑になるにつれ所得と資産の個人間分配への関心が高まり、それに応じて貧困と不平等の測定理論上の基礎を強化しようとする努力が新たに見られた。

 

競争市場での配分の効率をめぐって深い問いも提起された。「市場の失敗」という用語は1950年代末に現れ、あっという間に広く使われるようになった。とりわけ労働市場と信用市場の不完全さが貧困を理解する上での鍵とみなされるようになった。

 

新たな情報経済学は持続する貧困の理解にとって重要な鍵を与えた。信用市場が完全であれば、貧しい親でも学費のために融資を受け、後に子どもが収入を得るようになってから返済することできる。しかし、貧しい親がそうでない人よりも融資を得るのが難しければ、就学を経済要因が規定する、つまり貧しい家庭の子どもほど就学の程度が低いということが起こる。これは実際にどこでも見られることである。貧しい家庭では子どもが就学せずに働いていることがあまりに多い。このようにして貧困は世代を超えて受け継がれる。

 

経済学におけるこの新展開は、資産の分配における初期の不平等が持続し経済全体の発展を阻害する重要な経路を明らかにし、また、押上げ型の貧困政策に求められることを明らかにした。それは、信用や保険の市場での失敗を補うための政策であり、義務教育、(とりわけ貧困家庭への)就学支援といったものである(これらについては第9章、第10章で再び取り上げる)。

 

 

■ ロールズによる正義の原理

第二次貧困啓蒙期を画する哲学の著作を1つ挙げるとすれば、ハーバード大学の哲学者ジョン・ロールズによる『正義論』をおいてはない(Rawls 1971)。ロールズは2つの原理が現れると説く。原理の1つは、各人は、他のすべての人の同様の権利を侵さない限り、最大限の自由を享受する同等の権利を有するべきである、というものである。もう1つは、自由を侵害しないという条件の下で、両当事者がその結果としてより良い状態になるという意味で効率を高める時にのみ、社会選択は不平等を許容すべきである、というロールズが「格差原理」(difference principle)と呼ぶものである。

 

格差原理は、(そのもとはスミスに見られるとはいえ)それまでとははっきりと異なる考えである。この道徳原理の下では、ある社会と他の社会とを比べて、不平等度は高いとしても最も貧しい人々がより良い状態にある、そのような社会のほうが高く評価される。この原理は最も恵まれない集団の利益を最大にすることに帰着し、そのため「マキシミン」(maximin)原理として知られることになった。

 

ロールズのマキシミン原理は、社会の進歩を測るのに絶対貧困の指標を用いるべきとする主張の倫理上の根拠として、時として解釈される。しかし、その解釈にはいくつかの問題がある。

 

第二次貧困啓蒙期は、第一次からの知の伝統を受け継いでいる。ロールズは、格差原理は(フランス革命のモットーであった)「友愛」(fraternity)――すなわち「他のもっと恵まれない人々の利益になるのでない限り自らをさらに有利にしようとはしない、という考え」――の1つの解釈であるとしている。これは、第一次貧困啓蒙期に現れた友愛への志向に連なる当然の一歩であった。功利主義は、全体の効用のために個人の損失を正当化するのに用いられるので、友愛と対立するとみなされた。

 

ロールズの理論は、カントの再解釈でもあった。貧しい人々は、より恵まれた人々が彼らの犠牲において利益を得るような計画に対して拒否権を持つべきである、との考えである。アダム・スミスに共鳴して、ロールズは、人々が豊かになるために他の人々を貧困にすることは受け入れらないと唱える。

 

社会契約は現実世界での自身の状態についての情報の欠如の下で結ばれることを想起されない。このような無知のベールの下ではマキシミンが合理選択として現れる、というのがロールズの議論である。

 

ロールズの正義の議論は多くの論争を巻き起こした。ジョン・ハーサ二―は、極端なリスク忌避がない場合には、無知のベールの下にあるとしても、社会契約として平均効用の最大化よりもマキシミンのほうが選ばれるとは言えないであろうと、と論じた(Harsanyi 1975)

 

ロールズへの批判の中には、基本財をさまざまな自由に転換する能力が人により異なることに鑑みて、人々がその目標を追求する自由を適切に反映しないとして、基本財の概念を問題にするものもある。このような批判の展開として、センは、(所有する手段によってではなく)基本「ファンクショニング」――人々がどうあり何をなしうるか――により厚生の概念を規定した(Sen 2000, p74)(これについては第3章で立ち返り取り上げる)。

 

ローマ―はマキシミンの一種を提唱するが、それは機会を均等化するという異なった観点からである(Romer 2014)。これは、貧困には個人の努力と並んで外部環境要因も反映されるという見解に基づいている(Box 1.8を参照)。努力と環境を実証上で明確に識別することは至難の業であるが、これを概念上で区別することは、貧困政策を考える際に極めて重要である(『貧困の経済学 下』で見るように、この点は政策をめぐる議論でつとに認識されてきた)。

 

ロールズは、貧困と貧困政策についての新たな非功利主義の考えへの途を開いた。哲学において「十分主義」(suffcientarianism)と呼ばれるようになった立場で、貧困削減は社会にとっての正当な目的とみなされるようになった。

 

貧困の原因を理解するためのモデルが変わったことも重要である。貧困は、貧しい人々の悪い行いのみによるものではなく、むしろどうしようもない環境要因によるところが大きいと見られるようになり、(一方で)出生における環境の差と、(他方での)市場や政府の失敗の相互作用に注意が向けられた。貧困は、個人の生の実現のための機会を求める自由を損なわせるがゆえに、根本において受け入れられないものとなった。「貧困」についての判断にあたり機会の喪失が注目され、「所得」のみならず個人の属性にも注意が向けられるようになった。

 

 

■    アメリカにおける貧困の再発見

第二次世界大戦中には、軍需産業での労働需要が高まり(そのため農業労働者が減った)、同時に食料への需要は高まった。大きな構造変化が起こった。20年の間に、かつては農業で(小作人あるいは賃金労働者として)熟練を要さない仕事をしていた2000万人ほどが、仕事を求めて都市に移動した。職を見つけられるかどうかは人種により異なった。

 

アメリカ南部の拡散された農村貧困のある割合が、地理上集中した北部の都市貧困となった。多数の貧困者は依然としてその他の所に住んでいたのだが、都市中心への貧困の集中という新たな特徴は重要な変化であった。

 

住宅と用地の規模への所得効果が高く、高所得家計は割安な地価で広い用地を取得できる郊外に移り住むようになった。結果として、第二次世界大戦後のアメリカの都市では、中心部で貧困者の大規模な集中が進み、経済格差が歴然と見えるようになった。

 

貧困の都市化には、社会要因や家庭要因も関係した。都市では、多くの移住者の出身地である伝統ある農村コミュニティとは異なり、近隣での相互扶助やリスク分担の慣行はなかった。伝統の家族形態も変わろうとしており、一人親家庭が増加していた。

 

第二次世界大戦後のアメリカで全般に所得水準が上昇する中で、貧しい人々の生活状態を知ることで多くの人々は恥の意識を持った。1960年第初頭に公式の統計によりアメリカ人の5分の1近くが貧困であると示されたときには、多くの人々がショックを受けた。

 

全体としての裕福さの中での貧困の再発見には社会評論の役割が大きかった。2つの著作がとりわけ重要であった。ジョン・ケネス・ガルブレイスの『豊かな社会』(Galbraith 1958)と、マイケル・ハリントンの『もう一つのアメリカ』(Harrington 1962)である。

 

少数派たる貧困者の多くが、他の多くの人々に利益を与えた経済の拡大からマイナスの影響を受けた。経済の大きな変化が彼らを貧困にし、(政策や法制度を含む)差別に追い打ちを掛けられ、彼らは立ち直ることができなかった。ここでのハリントンの指摘は重要である。多くの少数派貧困者についての彼の記述は、大きなマイナスのショックが貧困を生みまた回復を困難とするという富の動態モデルの結果を思い起させる(Box 1.6で貧困の罠について論じた。第8章では諸モデルをもっと詳しく取り扱う)。

 

ハリントンやガルブレイスのような社会評論が、貧困に対する公共政策への要求を高めるのに寄与した。1960年代には、アメリカのいくつかの主要都市での暴動に見られるように、都市中心部での不満は爆発していた。貧困政策を求める声は貧困者自身からも発せられた。これは、黒人貧困の都市中心部への集中をもたらした経済の変化を反映していた。貧しい人々は新たな政策を形作る過程で重要な役割を果たすようになった。

 

 

■    アメリカでの貧困への宣戦布告

世論の高まり、大規模な抗議行動、政治論争などが渦巻く中、1960年代に米国連邦政府による貧困への強力な政治対応が起こった。「子ども手当」(Aid to Families with Dependent Children : AFDC)の適格基準が大幅に緩和された。

 

さらにジョンソン政権の「貧困との戦い」(War on Poverty)と一般に呼ばれるようになった多くの新たな社会政策が打ち出されたことも重要である。1964―1965年に一連の立法措置により、栄養(食料券配布[Food Stamp])、健康(公的健康保険[Medicare, Medicaid])、教育、住居、訓練、の各分野でのプログラムが打ち出され、その他にも多様なコミュニティ・プログラムが開始された。新施策にはヘッドスタート(Head Start)も含まれており、貧困家庭の児童が入学時に不利にならないようにするため就学前プログラムが提供された。

 

貧困に対するこれらの直接介入施策は、偉大な社会(Great Society)計画の一部をなしており、同計画には多くの重要な押上げ型の貧困削減政策が含まれていた。新たな押上げ型のアプローチは次のような言葉で表現された。「より多くのアメリカ人が、とりわけ若い人々が、みすぼらしさ、みじめさ、失業状態、から抜け出すのを助ける上で、われわれの主要な武器は、良い学校、良い保険、良い家庭、良い訓練、良い就業機会、である」(リンドン・B・ジョンソン大統領の1964年1月の年頭教書)。

 

新たなプログラムを貫く目的として貧困削減が掲げられていたが、それらはエンパワーメントを目指し、北部の都市スラム地域の黒人に届くようにし行政との関わりを築こうとするものであった。押上げと保護を含む広範な貧困政策が意図されていたのである。

 

このような目的に応えるように、新たなプログラムの多くは、政府機関の既存の機構は用いず、コミュニティ・レベルで新たな組織を用いて実施された。これらは、1990年以降に発展途上地域で重視されるようになったコミュニティ・ベースの貧困政策において、再び登場することになった。当時の政治体制は、貧困からの脱却を果たすべく都市貧民をエンパワーしうるとは見られていなかった。

 

アメリカで1960年代に新たな貧困政策が現れた理由については論争がある。貧困対策プログラムへの公共支出の増大は、世論の大きな変化によりもたらされたとは言えないようである。しかし、選挙結果は有権者登録にも影響を受ける。都市への移住により黒人の登録率と選挙への影響力は高まり、公民権や貧困政策を後押しした。

 

第二次貧困啓蒙期における重要な革新として、貧困政策の効果について知ろうとする新たな試みがあった。当初から政策の実施にあたって評価に注意が向けられ、多様な貧困対策パイロット・プログラムのランダム化実験も行われた。

 

アメリカでの貧困との戦いの開始を主導した人々の大部分は経済学者ではなかったが、経済学者は議論や政策立案には関与した。その頃に、イギリスその他のヨーロッパ諸国でも同様の展開が見られた。経済学者の顕著な貢献は、「権利」といったなじみのないことではなく、厚生主義・功利主義の伝統を踏まえたものであった。

 

重大な懸念の1つとして、給付に厳しい資力査定が伴うことで貧しい人々の就労意欲が殺がれることがあった。プログラムによっては、他の収入が増えれば同額だけの給付が減らされるので、仕事からの収入は実際上100%の限界税率を課されるのに等しかった。

 

フリードマンは、福祉プログラムを廃止し負の所得税を導入するという大胆な提案をした(Freedman 1962)。負の所得税は、所得税体系全体の設計を通じて財源を生み出し、誰しも所得がある最低限を下回ることがないように保障することで貧困を解消する、という構想である。同様の所得保障に提案はイギリスのではジェームズ・ミードによりなされた(Meade 1972)。

 

1975年に開始されたアメリカの稼得所得税額控除は、負の所得税の考えを幾分か含んでいる。所得がある水準に達しない勤労者家庭が税額控除(マイナスの税)を受けることができ、所得の上昇に伴いそれは漸減する。その後、他の多くの国でも同様の政策が導入された(これを含むターゲットされた政策については第10章で取り上げる)。