『良き社会のための経済学』 ジャン・ティロール著 村井章子訳 (2018年8月24日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 経済学者の仕事 ◇

 

 

 

第4章  ②研究の日々 (第4章は①~③まで)

 

① は↓

 

 

2  アカデミックな経済学のミクロコスモス

 

 

■   学問には潮流がある

学問の潮流は、理論の信頼度や実験の成果に応じて変化する。マクロ経済学の分野でも、潮目の移り変わりを見ることができる。1970年代半ばまで、マクロ経済学ではケインズ理論に完全に支配されていた。

 

たとえばケインズ理論では、紙幣を増発して政府支出を増やす景気刺激策を採用すれば、労働需要を増やし、失業率を押し下げることができるという。労働者を獲得するために企業は競って名目賃金を引き上げる。人件費の上昇は製品価格の上昇という形で消費者に転嫁され、つまりインフレが発生する (このように失業率とインフレ率が負の相関関係にあることはフィリップ曲線で表される)。景気刺激策とそれに不随するサプライズ効果によってインフレが加速するので、失業率が高く賃金の名目硬直性が高い(すなわち賃金が生活水準に連動していない)社会においても、実質賃金が押し下げされる。また債務は通常名目ベースなので、インフレによって実質的に目減りし、債務者は息を吹き返す、というわけだ。

 

だがこのような人為的なインフレでいつまでも消費者、債権者、労働者をだませるとは思えない。預金者は物価に連動しない資産を持たなくなる。あるいは高い金利を要求する。労働者は賃金を物価スライドにするように要求する(現に世界中の政府がこの問題に頭を悩ませてきた)。

 

そもそも1970年代の現実は、ケインズ理論を裏付けていないように見える。なにしろこの時期は、スタグフレーションに覆われていたのだから。

 

さらにケインズ理論では、人々は 「適応的期待」 を形成するとされている。つまり、投資家は過去に観察された傾向や経過の影響を強く受け、将来については厳密な予想をしないというのである。だがたとえば、金融バブルの状況を考えてみよう。この状況で資産を買うプレーヤーは、売って売買益を稼ぐことしか考えていない。問題は、いつ売るか、ということに尽きる。

 

ケインズ自身が楽観的な予想に走る人間の本性として 「アニマル・スピリット」 に言及していることを考えると、ケインズ理論に将来予想がきちんと組み込まれていないのは、いささか矛盾しているようにも感じられる。

 

反ケインズ学派はモデルを動学的に精緻化し、時系列計量経済学を発展させて、主流の座を占めるようになった。だが彼らのモデルにも限界があった。ニュー・ケイジアン・モデルの多くがそうなのだが、金融システムの存在がほとんど考慮されておらず、バブルや流動性リスクも組み込まれていない (マクロ経済学では金融システムを介した金融政策の波及効果をしきりに強調しているのだから、まったくの矛盾と言わねばならない)。

 

今日のマクロ経済学者は、さまざまな考え方のすぐれた点を統合して、マクロ経済の水先案内人としての理解を深めようとしている。フランス出身のエマニュエル・ファーリー(現ハーバード大学教授)も、そうした先端的な研究者の一人である。

 

 

■   ランキングは適切か

経済学に限らず学問分野では、研究のクオリティはいったいどのように評価するのだろうか。おおざっぱに言うと、二つのアプローチがある。 (これは非常にフラストレーションが溜まる)、もう一つは同僚、つまり同じ分野の専門家による評価である。

 

上海交通大学の大学研究センターが毎年発表する世界大学学術ランキング(ARWU)が有名である。ARWUでは6項目の客観的な指標に基づいて順位をつけているが、この中にはノーベル賞やフィールズ賞を受けた卒業生の数、引用回数の多い研究者の数、学術文献引用検索データベース(SCIEおよびSSCI)に収録された論文の数という項目がある。

 

だがノーベル賞やフィールズ賞を受けた卒業生がもうその大学にいないとしたら、どうやって大学のクオリティに貢献できるのか、大いに疑わしい。また論文の数にしても、掲載された専門誌の質が加味されていないのは問題だ。

 

大学の総合評価も結構だが、学問分野別の評価をすべきである。学生が大学を選ぶときにも、学長が大学の方針を立てるときにも、参考になる。ただ、まだ進む分野を決めていない学生にとっては、総合評価が役に立つだろう。したがって、両方のランキングが発表されることが望ましい。

 

また、研究者の業績を論文の本数や引用回数で評価するのは、まっとうなようだがそう単純ではない。データベースに収録される論文についても、掲載誌にウェイトをついて本数の評価に反映させるべきだろう。だが、それでも十分とは言えない。同じ専門誌であっても、掲載される論文のクオリティはまちまちだからである。それに、掲載誌にウェイトをつけて本数を数えても、研究の需要性を表す正確な指標にはなり得ない。

 

引用回数のほうは、回数を数えたうえで、引用者の論文の重要度に応じてウェイトをつける。引用は、分野によって頻度に偏りがある。さらに引用がひんぱんにされるからと言って、必ずしも学問的関心の深さを表すとは限らない。概説書の類いは、その分野の専門家でない人が全体像を把握するのに役立つため、引用回数が多くなりやすい。しかしそれが学問的進歩を表すとは言えないだろう。さらに、引用はその性質上、どうしてもタイムラグがあるため、引用回数だけで評価すると若い研究者は不利になりやすい。

 

矛盾していると思われるかもしれないが、私はこうした客観的な外部評価を積極的に活用すべきだと考えている。アメリカのような国では、大学も財団などの支援組織も実績主義で効率的に運用されているので、ランキングの類いはそこまで必要ない。これに対して、ヨーロッパの多くの国では、優秀な大学や研究機関を見分けるためにこうしたランキングは必須である。

 

次に、専門家による評価に移ろう。研究予算の効率的配分を考える支援組織は、すぐれた専門家で構成される審査委員会を設けるべきだ。お手本になるのは、欧州研究会議(ERC)やアメリカの国立科学財団 (NSF)、国立衛生研究所(NIH)である。

 

教授の任命手続きにおいても、専門家による評価は重要な役割を果たす。研究先進国では、教授の任命は、まず学内外から公募し、教授から成る学部レベルの選考委員会が審査して有力候補を絞り込む。喧々諤々の議論を行い、候補者の主な論文を読んで評価するという手順だ。

 

次に、いわば 「保証人」 の立場として大学当局が関与し、一定以上のポストについては、外部委員が2週間かけて評価する。この外部委員は学長または学部長が選定する。外部委員は、選考委員会が選んだ候補者の研究者としてのクオリティを、同じ分野の他の研究者と比較評価するように求められる。外部委員の存在意義は、大学当局と学部の間の情報の非対称性を解消し、後者が選んだ人材の質を前者が確認できるようにすることである。

 

 

■   ピアレビューの功罪

学術研究の評価においてきわめて重要な地位を占めるのは、前にも述べたピアレビュー、すなわち同じ分野の専門家による査読である。学術論文は、専門誌の編集委員会が選定した匿名の専門家(レフリー)が査読し、レポートを書く。この査読レポートと、編集員自身の評価に基づいて、編集委員が論文の掲載にゴーサインを出すか、きっぱりと却下する。論文が細心の注意を払って評価されることは、学術界が健全に機能し知識を蓄積していくために必要不可欠だ。専門誌は、データの質、統計処理の正確性、論理の一貫性、理論の革新性や意義などを総合的に評価するという大切な役割を果たしている。

 

これにはこれで弱点がある。まず、学者には特有の群集心理があり、そのとき仲間内で関心の高いテーマにはそそられるが、関連する別の重要なテーマを見落としてしまう傾向がある。また、センセーショナルな論文にはどうしても目を奪われがちだ。すでに発表された研究をより慎重に吟味した実証研究などは、あまり注意を引かない。初めて取り上げるテーマで驚くべき結論に達している論文は選ばれやすい。

 

言うまでもなく、どんな学問分野にも不正はある。よくあるのは、データが全部捏造だったとか、どこからかコピーしたものだった、というケースだ。こうした問題に対しては、原因を究明し再発を防ぐという当たり前の対策しかないよう思われる。これまでに試みられた方式で多かったのは内部評価だが、これは依怙贔屓(えこひいき)になりやすいという致命的欠陥があった。こうしたわけだから、外部評価とピアレビューがこれからも学術研究評価の二本柱であり続けるだろう。

 

 

■   経済学に対する批判

経済学によく浴びせられる批判の1つは、研究者の間であまりにちがいが大きいということだ。何も学問上の意見の相違を批判しているわけではない。そうではなく、批判の的となっているのは、全般的な姿勢や感性の部分である。

 

MITの経済学者は伝統的にリベラルでケイジアンであり、シカゴ大学は保守的でマネタリストである。そのくせ、研究の手法に関しては両者合意している。良い研究には定量的アプローチが必要であること、政策提言につなげることを目的とする経済学の規範的側面においては、因果関係の立証とその説得力のある説明が重要であること関して、両者は一致している。

 

MITを代表するロバート・ソローがかつてしてきしたように、研究者は既存の知識を批判的に検証し、新たな道筋をつけることによって名を挙げることが多い。そして研究室で、専門誌上で、学会で、激しい議論が戦わされている。これは良いことである。意見の衝突や同じ分野の専門家からの批判こそが、研究者を前に進ませるのだから。

 

重要なのはさまざまなアプローチが互いに刺激し合うことであり、そのためには人材の流動性が必要だ。弟子たちが群を作って 「師匠」 の学説の解説をしているような学派ほど始末に悪いものはない。英米圏には、これを断ち切るための良い習慣がある。博士課程を終えた学生はその大学を離れなければならない (後日戻ってくることは認められている)。この慣習は、教授同士の関係を平和にするだけでなく、学生に新境地を切り拓くチャンスを与え、学部には新しい血を迎え入れることができる。

 

 

■   経済学教育が行動に及ぼす影響

経済学者は、教え子たちの行動を調べるためのラボラトリー実験やフィールド実験も行ってきた。その結果、自己の利益と他人の利益が衝突する場面に遭遇した場合、経済学部の学生は他学部の学生よりも利己的に行動することが判明している。

 

問題は、利己的な人間が経済学部を選ぶのか、それとも経済学を勉強するのと利己的になるのか。この点は重要である。前者であれば、経済学に罪はない。しかし後者の場合には経済学は効果絶大で、価値観の形成に影響をおよぼし、かなりバイアスのかかったプリズムを通して世界を見るように誘導していることになる。

 

経済学教育の影響の度合いを知るためには、このようなメンタリティの変化が起きる経路を理解しなければならない。1つの仮定として言えるのは、利他主義というものは脆弱であるということである。

 

利他的な行動を 「正当化」 する根拠がある場合には、経済学教育では、たとえば市場における競争戦略を研究したり (世の中は弱肉強食だ)、個人の利己的な行動が最終的には資源配分においてうまく調和をもたらすと教えたり (だから利己的になってよい)、インセンティブの設定が不適切だと社会にとってよからぬ行動を生むという実証研究を読んだりする (よって経営者や政治家は信用できない)。

 

こうして、経済学は利己的な行動を正当化する根拠を与えてくれるというストーリーができあがる。これらは正しくはあっても強力な根拠ではないが、しかしモラルに反する行動をとる口実としては十分に役に立つ。この仮定が成り立つかどうかを検証するには、のちに職業に就いてから、あるいは人間関係を通じて、経済学で教えることとは別のことを学ぶかどうかを調べる必要がある。この問題を研究するのであれば、経済学教育の短期的効果だけでなく、長期的な影響も分析対象に含める必要がある。

 

 

 

3  経済学者はキツネかハリネズミか

 

 

イギリスの哲学者アイザイア・バーリンは、歴史観を論じた随筆 『ハリネズミと狐』(邦訳、岩波書店)の冒頭で、古代ギリシャの詩人アルキロコスの詩片 「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミは大きいことを1つだけ知っている」 を引用した。

 

全体として見ると、40年前の経済学者はハリネズミだった。経済学において最も知的に完成されたパラダイムである競争市場モデルについて、たなごころを指すように知り尽くしていた。競争モデルは、物理学におけるボイル=シャルルの法則よろしく、ありとあらゆる状況、たとえばボラティリティにも、金融にも、国際貿易にも適用されてきた。

 

 

・・・< 競争モデル >・・・

競争市場モデルでは、買い手も売り手(企業)もきわめて小さく、売買を行う市場の価格に影響をおよぼすことはできないものとする。買い手も売り手も現在の価格と商品の品質を完全に知っており、どちらも自由な選択に基づき合理的に行動する。すなわち、買い手はできるだけ安くできるだけ良い品を買おうとし、売り手は利益をできるだけ増やそうとする。買い手と売り手は将来の出来事についての合理的な予想はすることができる。

 

このモデルはさまざまな財の市場で需要と供給が均衡にいたるプロセスを説明するために適用され、そこから 「一般均衡」 と呼ばれる現象を分析できるようになった。たとえば、ある市場で供給が変化すれば、他の市場にも影響がおよぶ。

 

理由の1つは財の補完性あるいは代替性 (アンドロイドのスマートフォンを買ったら、専用のケースやアプリも買う)、もう1つは収入効果である (アパートの家賃が引き上げられたら、そこの住人は消費財への支出を減らす)。

 

このモデルが経済理論の発展の重要な足がかりになったことはまちがいないが、そこには互いに関連する2つの欠陥があった。まず、経済政策にとってどのような意味があるのかがはっきりしない。市場が効率的だと言えるのは、完全競争、情報の対称性、合理的な行動を前提として摩擦が存在しないことになっているからだ。となれば唯一考えられる政策は、所得に累進税を課すことになる。このことと関連するもう1つの欠陥は、本書で取り上げるような現実の状況をモデルがまったく表現していないことである。

・・・< 競争モデル >・・・

 

 

市場不完全な競争はどのように分析すべきか、競争法の設計に当たってそこから何を学ぶべきか。財の価格や品質について情報の非対称性が存在するケース、取引相手に関する知識を持ち合わせていないケースをどのように取り込むべきか。そのほかの市場の欠陥を予測できるか、またその対策はどうするか、等々。

 

最初のモデルにこうした 「摩擦」が導入されるまでには長い時間を要したが、それだけの実りはあった。モデルは以前ほどシンプルではなくなり、多くのことを配慮しなければならなくなった代わりに、公共政策や経営戦略に関わるたくさんの重要な問題を分析できるようになった。

 

ハリネズミは一生をある一つの考えに導かれて研究に捧げ、弟子たちにも同じ道を歩ませようとする。すべてを包摂しうると判断したパラダイムを守るためなら、果敢にリスクをとる。一方のキツネは、すべてを説明しうる理論には懐疑的だ。さまざまなアプローチをとり、それらを見直しながら理論を構築することを好む。あるやり方で進めるうちに効率が悪くなったと感じたらすぐに別の方法を試す。

 

科学はキツネもハリネズミも必要としている。学問研究は、理論と実験の間を行ったり来たりするのとまさに同じように、キツネとハリネズミの間を行ったり来たりする。経験的には、研究の世界ではどちらのスタイルも報われると感じている。

 

 

 

4  数学の役割

 

 

社会科学と人文科学の中では、経済学は数学を最もよく使う学問である。20世紀に入ると経済学の数式化は徐々に進み、1940~50年にかけてその傾向に拍車がかかる。この頃の偉大な経済学者らの研究は、数式や数学的手法を採り入れて経済学的思想を構築し、理論を形式化して証明した (または無効とした)。

 

その理論は一見すると革新的だが、アダム・スミスからアルフレッド・マーシャルにいたる偉大な古典派経済学者の影響は免れず、曖昧さも残っている。古典派経済学は必ず通らなければならない道であり、その後の研究はすべてその上に築かれる。そしてそこから、新たな何かを生むことになる。

 

物理学や工学のように、数学にも2つの段階がある。理論のモデル化と実証的検証である。データの分析に計量経済学を活用することに、異論の余地はあるまい。因果関係を明確にすることは、意思決定にぜひとも必要だからだ。相関関係と因果関係はまったく違う。原因となる要素を特定し、経済政策や経営戦略の決定に役立つ提言に結びつけることができるのは、計量経済学に依拠した実証分析だけだと考えられる。

 

一方、問題の本質に直結したモデルを活用することに対しては異論が多い。あらゆるモデルは現実が単純化されており、ときには誇張されていることもある。

 

あれこれ欠点はあっても、たくさんの理由からモデル化は必要不可欠だと私は考えている。まず、モデルは実証分析を可能にする。そして実証的にテストできるモデルなしには、データは経済政策に有益なことを何も語ってはくれない。モデルによって経済的厚生の分析が可能になり、そこから経済政策に役立つ提言を導き出すことができる。

 

次に、モデルを記述すること自体が思考に規律を持ち込む。経済学者は仮定を明確にしなければならず、論理展開に一定の透明性を持たせなければならない。さらに、記述する作業を通じて論理の正しさを検証することができる。

 

とはいえ、数式の導入は代償も伴う。第一に、ときにひどく難解なので、初めて分析を試みる人はさっさと投げ出しかねない。忍耐が必要である。

 

第二に、経済学者は 「街灯の下を探す」 行動に走りやすくなる。たとえばマクロ経済学では長いこと 「消費者はみな同じである」 と仮定していた。単にそのほうがモデルを分析しやすいからだ。今日ではさすがにこの仮定は却下されるようになっている。消費者はさまざまな面でちがうのだから。ただし、そうするとモデルは複雑になる。仮定を精緻にするほど、また経済主体の記述を緻密にするほど、それらが論理に適っていることを確認するために数学に頼らなければならなくなる。

 

第三に、経済学教育が過度に抽象的になり、数式の活用がむやみに奨励されるようになった。教える側からすると、学生が理解しやすい方法で言い換えるよりも、研究そのままの方法を使うほうが容易なため、ついそうしてしまう。

 

そして第四に、経済学者たちは美しさやエレガントさの追求に走りがちだとよく非難される。エレガントなモデルを構築するために数式を使うことが、科学的なクオリティを保証するものと見なされているのである。だが、一つ忘れてはならないことがある。いかに精緻に組み立てられた論文でも、内容が乏しければすでに忘れ去られるということだ。長く記憶されるためには、方法論に何らかの進歩をもたらし、それを応用した次の研究の出現を促すようなものでなければならない。