元々「ヤクザ」とは博徒を指すことが多かった。
博徒とは、無宿人、つまり普通の仕事に就けない人たちが、博打場を開いて寺銭を稼ぐ団体に属してその「運営」の仕事に参加する人たちであった。それを社会公俗を乱すという理由によって、ヤクザにやらせずに、国がやることになったのが、公営ギャンブル=競馬(農林水産省管轄)、競輪(経済産業省)、競艇(国土交通省)、宝くじ(総務省)、スポーツくじ(文科省)である。庶民にとってなくてはならないものらしいギャンブルは国が管轄するということだろうか。
ギャンブルの歴史は古く、それはほぼ人間の歴史と同じといっても良いかもしれない。
たとえそこに金銭を賭けなくとも、「自分で試して結果を見る」という意味では、そこにあるのは極めて人間的な行為である。
例えば、狩猟採集はやってみなければ獲れるかどうかわからない点で「ギャンブル」である。
同じく農業も、あらかじめ天候がわからない以上「ギャンブル」である。
同様に、生産も商売もやってみなければ売れるかどうかわからない。
ビジネスや投機はギャンブルそのものである。
考えてみれば、科学実験もギャンブルである。
人間には、他の動物にはない認識理解力と記憶力があるので、自分で試して結果を見る具体的な体験は、石を投げた結果を知るのと同様に、その後生きていく上で意味のある知恵や教訓につながっていることが多い。もちろんその中には、「やっぱり博打に手を出すのはやめよう」というものもあるのかもしれないが。
逆に、その実験結果の連続を求めることが面白くてやめられなくなって習慣化し「依存症」になる人も出る。これは知能が高い低いと関係がない。人はそれ以前にギャンブルが好きな動物なのである。いや、もしギャンブル的実験行為がなければ、人は体験知を獲得蓄積できなかったと言えるのである。
自分でサイコロを転がしてその結果を占うことは古くから行われてきた。カエサルは、ルビコン川を渡るときに「賽は投げられた」と号令を発し、日本では7世紀の持統朝で「賽子博打禁止令」が出たとのことであるから、古事記よりもその歴史は古いことになる。最近ではサイコロを使って子どもに暗算を教える者も出た。
以上の如く、「ギャンブル」とは金を賭けると賭けないに関わらず、全て人間が、その人間性ゆえに、日常常に行なっている行為であると言えると思う。
そしてギャンブルほど簡単に集中して楽しめるものはない。ギャンブルほど簡単で効果的な暇つぶしはない。
子どもがゲームにハマるのもこの「ギャンブル性」のためである。これも賢い賢くないに関係ない。体は疲れないから制限がなければいくらでもやり続けることができる。問題はそれが他のことに役にたつ「実体験」ではないところである。
「依存症」とは、暇なときにそれ以外にすることがアタマに浮かばなくなる習慣状態である。
ゆえに「依存症」を脱するには、自分がその状態にあることを認識し、それ以外のことを思いついて実行しようとすることが必要であることになる。
賭け事は人間本質的なもので、その結果を予測する「思考」は愉しい。しかし、それが他の多くのことを含めた全体のごく一部で、結局他人の利益になることがわかって「バカらしい」と思えなければやめられない。わかってもやめられない人もいる。
そしてここでも、暇なときにするべきことを思いつく能力がベースになっていることがわかる。