「全学連」―全日本学生自治会総連合は、1948年に全国145の大学自治会が参加して結成され、当初共産党指導の下、後にこれに対する批判派―「新左翼」によって、60年代の安保反対闘争などに拡大するが、その後「革マル」、「中核派」、「革労協」などの各派に分裂し、これが対立抗争し、「内ゲバ」に至った。
これに対し、「全共闘」は、1968年の日大の巨額使途不明金に対する学生たちのデモが発端であり、一方東大では医学部インターン生を中心に待遇抗議運動が広がり、他の大学でも学費値上げ反対闘争などが起こり、あっという間に全国的な反大学組織運動に拡大転換して、大学の多くはバリケード封鎖された。
68年には東大安田講堂に学生たちが立てこもり、69年には機動隊が突入・解体し、東大入試は中止の事態となった。
その後、70年代には、70年の赤軍派による「よど号ハイジャック事件」、同じく赤軍派による72年の「あさま山荘事件」、74年には東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件なども起こり、さらに先にも書いた内ゲバが続き、世間から離れたところでの活動に追い込まれ、徐々にこの反体制のうねりは沈静化していくことになる。
断片的な知識を繋げてだらだら書いてしまったが、私はこの学生たちの運動になぜか強い興味を惹かれてしまうのである。
私が高校に入学したのは1972年で、もう学生運動は終了しており、その残滓として女子の「家庭科学習不公平問題」と言う看板があるくらいだった。これは女子も受験するのに女子だけ家庭科の授業があるのは不公平と言う運動だったと記憶する。
すでに大学に進学した「先輩たち」は、学生運動の経験をした者も多く、また塾講師などもこの経験者が多く、あちらこちらで「武勇伝」のようなものを耳にしたが、とどのつまり学生運動がなんであったのかはどうしてもよくわからなかった。
彼らはなぜ学生運動をしたのか。
何の目的で学生運動に参加したのか。
何に共鳴して全国的な運動に広がったのか。
そのことが知りたかった。
ごく一部の者を除いて、果たして本気で共産主義国家を作ろうと考えていたかどうかは疑わしい。後に学会や政界で活躍した者も出た。世界的な芸術家も出た。会社員や公務員になった者も出た。今となっては彼らが本当に共産主義国家を作ろうとしていたのかは信じがたい。そこにはそんなこととは別の理由があったとしか思えない。それは何なのか。
長年そのことを考えていたが、15年ほど前、定年退職した元高校教師でバリケード学生運動経験者が八ヶ岳山麓に移住して農業を始めたので訪ねて話したこと時、私が「結局なぜ学生運動に参加したのですか?」と尋ねると、彼はぶっきらぼうな言い方で口にした。
「なんでも良かったのさ。とにかく古い体制をぶっ壊したかっただけ。共産主義はその名目さ」
これはなかなか腑に落ちたが、「古い体制」とはなんなのか、 戦後生まれの彼らが、「古い体制」と呼ぶものは何であるのか。
それは戦前から続いて戦後もあるものに違いない。
彼らがぶち壊したかったものーいったいそれは何だったのか?
さて時代は80年代に向かっていよいよ高度成長が爆進し、学生運動で真面目に共産主義国家を目指した者の多くは「貧乏くじ」を引かされる結果になったと見える。多くの者は就職し、中には才能を開花させて社会的に活躍する者も多く出た。しかし、活動に入りすぎたために逮捕歴も重ね、一般社会にまともに溶け込むことができなかった者たちは、郷里や家族とも切り離され、国外逃亡した者や、長期潜伏後昨年死亡が確認された桐山聡などの例もあった。もちろんオーム同様、長期服役を受けた者もたくさんいた。またそうでなくても、都会で一般企業に勤める道を選びたくなかった者たちはどうなったのか。そして、こうしたことの背後で世は進み、1990年にはソ連邦が崩壊し、その一方では鄧小平が「資本主義化」を推し進めていた。つまり、共産主義的な運動は、経済的発達によって吹き飛んでしまったと言える歴史的な結果になった。