他にやらなければならない仕事があるのに、なぜか立川市のことを調べることにハマっている。
なぜ立川市は多くの芸術家が集まる都市になったのか。
その問いのきっかけは「LaLaLa」で見た人たちなのであるが、どうも答えを得るのは単純なことではなく、もっと立川市の人に「取材」したり、立川市役所や図書館に行ったりしないとならない。
てなわけで、この項早く打ち切りたいが、米軍基地と立川の土地開発と、芸術振興を柱に簡単な年表を作ってみると、
1945年、旧陸軍飛行場がアメリカ軍に接収される。
1950年、朝鮮戦争で米軍の出撃拠点の一つとなる。
1955年、米軍基地の拡張に伴う土地接収計画に反対し砂川闘争が起こる。
1965年、立川基地がベトナムへの出撃拠点の一つとなる。
( 1964年、「立川駅南口土地区画整理事業」起案―市長桜井三男。1968年、西武鉄道玉川上水〜拝島間開通。)
1977年、基地返還。
1983年、昭和記念公園開園ー市長岸中士良。
(1988年、立川市地域文化財団設立。96年、第一次立川市文化振興計画開始―市長青木久)
2000年、多摩都市モノレール上北台〜多摩センター間開通。
(2004年、第二次立川市振興計画、立川市文化芸術街づくり条例制定―市長青木久。2011年立川市新文化進行計画―市長清水庄平。)
2015年、南口整理事業終了。
(2015年、第三次進行計画開始。2020年、第4次進行計画開始―市長清水庄平)
この間、67年に今日の姿を見ることなく急逝した桜井三男市長の多摩地区中核都市化計画事業開始以降、ずっとその実務にあたってきたのが、1987年から5期務めた元助役の青木久市長で、彼の下で駅近辺の開発事業が進み、その目処が立った後半から芸術振興政策が取られ始めてきたということになる。
芸術振興を掲げると、そのための建設物が必要になる。それなら建設業者の味方自民党勢力も納得する。「意外」というか、「必然」の帰結であった。
一方1990年代、バブル崩壊後で最も酷い目に遭った人たちの一つは、都心に拠点を持っていた芸術家たちである。彼らが使っていたボロ屋、あるいは「倉庫」などは、ことごとく「地上げ」に合い、中には埼玉、山梨、群馬、長野と拠点を移す者もあったが、都市を離れては生活できない芸術家たちが選んだ地域の一つにこの多摩地域があったと思われる。何せちょいと中央線に乗れば都心直結である。この時代、「写真家」たちなどは雑誌などの仕事の機会も激減し、おまけにデジタルに切り替わることへの「設備投資」ができないでタクシーの運転手になったりした。
都会で生活する。しかも芸術活動をして。
その最も基本になるのは家賃、光熱費、水道料金である。これらがベースとして差し引かれた中で、残りが食費と交通費を含めた「活動費」になる。
これは都会では、10万円を下らない。家族や子供がいるならば、それも維持しつつ活動するのは「困窮」に耐えることの連続になる。「芸術家」ではなく、「生活活動家」になってしまう。
芸術家には「制作場所」が必要である。絵画制作でも都会の狭いマンションでは充分にできない。小さいものしか作れない。彫刻ということにでもなれば、「場所」がなければやっていきようがない。また展覧会のためにギャラリーを借りるにも都心では高くて手が出ない。同様に音楽家には練習場所とホールが必要である。
でも一方、彼らは生活費を稼ぐ必要があるから、「芸術」以外の仕事をすることが必要になる。
それには、「都市」を離れることは不可能だ。
すぐに「都心」に行けるところにいなければ生活費を稼ぐことができない。
つまり、立川市の芸術振興政策が、偶然バブル崩壊と相まって、芸術家たちの大量移住につながったのではないか。
いやそもそも、立川市だけではなく立川周辺には、音楽、美術などの芸術系の大学も多く、その学生や学校関係者たちが、便利な立川周辺を棲み家に選んだのではないか。
しかし、そこに「花」は咲いた。
基地の街立川は、人々が住んで楽しい、実存感がある街に変身した。
左も右もないではないか。
そこで共通の「一致点」を見出す。
それは文化を高める活動の一員になることだ。
こういうのを「民主主義」というのではないか。
それには市民の「覚醒」が必要である。
しかし、「油断大敵」。彼らはそれを彼らの次世代に繋げることができるのか。
立川市で私の一音一音古典音読を広め始めたらどうなるであろうか。
そうしてみたい自分がいる