何が正しいことなのかわかってしまうこと。
我々の認識の背後にその「前提」としてあるものを知ること。
宗教も社会思想も哲学も政治もみんな「言語」でできている。
左翼?日本語を用いている。話している。
右翼?これまた日本語を使用して活動している。
スピリチュアリスト?これも日本語を使っている。
「右」も「左」も「神秘」もない。
観念的考えに「事実」はない。
そこに「記述」があるだけ。
自分の至らぬ「レトリック」に酔うだけ。
体験知は観念知に先行する。
「観念知」は体験知の「集積」がなければ成り立たない。
浅いアタマーそれを自覚することは難しい。
深い認識―それに遭遇する「事実」を知る機会も少ない。
しかし、深く自分の「生」を捉える人は違う。
感性は「認識」に先行する。
そして両者は「意識」を前提とする。
であるとすれば。「意識」を高めることが「正着」ということになる。
では、その「意識」を高めるにはどうするか?
「祈り」それも正着の一つだろう。
「瞑想」それも正着の一つではある。
でもそれ以外の何か。
外界からの「刺激」に「反応」する自分。
混濁した中での「抽象」。
偶然の機会の中での「覚醒」。
それを待ち構える時、それは現れる。
この観点の下、これから教育の本質を語る哲学者が現れることを願う。
哲学者は、自己表現の意味を問わずには、その仕事をなせない。
近代の哲学者の実態は、カント以下、「作家」である。
失礼。以上、読者期待通り、「冗談」で書いた。