私の魚遍歴ー21 | JOKER.松永暢史のブログ

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この後私は進学校の教育を無視して遊びまくって西高を卒業し、2年浪人しても文3に落ち、結果的に慶應大の文学部に進学した。哲学を専攻するつもりで入学したが、教養課程の授業も三田での授業も面白くなく、家庭教師のバイトに精を出していると、ある時偶然に新宿歌舞伎町の路上でスナダに出会った。スナダは現役で早慶に合格し、それを蹴って横浜国大に席を置きながら仮面浪人していたが、3回目も文1に落ちていた。その後ろから現れたのがジーンズブーツ姿がよく似合うキタムラだった。他に並ぶ者がない読書家とされたキタムラとは西高で一度も話したことがなかった。彼も早大政経に席を置き、再度文1を受験したがこれまた失敗していた。

彼らと飲んでいると、シルクロード横断旅行の計画を提案された。これまでの受験勉強の復讐をしようと言うのである。

この後のことは書くと本当に長くなる。これはインド・ムンバイ〜フランス・パリ間を自動車で走破する旅だったが、筆舌に尽くし難い困難の連続で、今更タナゴ捕りの時のダイアローグどころではなかった。事故、故障、通行不能、遭難、盗難、絶えず困難と危機が起こり、すぐにその次の行動判断を自分たちで下さなければならなかったのである。生死の境を脱してイスタンブールに辿り着くのに3ヶ月もかかってしまった。その間全く日本に連絡せず、いや毎日生き抜くのに必死でとても連絡なぞできない状況に陥っていた。親たちは、3ヶ月も連絡がないので、「どうやら死んだ可能性が高い」、「優しい子だったのに」などと話したそうだ。

これは、私が「少年」から「青年」に至る過程の旅だったが、これまた行く前と完全に異なった人間になって、5ヶ月後にほとんど荷物を持たずにパリから帰国した。体重は75キロから55キロに下がっていた。

諸国、特に西アジア地域を旅するうち、私はもう父と同じような一般日本人社会の価値観の延長には「幸福」はないと直観し、これとは別の生き方をしようと決めていた。どうやっても日本人の組織に属することに適応できない自分を見出していた。

富澤は、帰国した私に再会すると、自宅でやっている個人塾の教師をするように依頼した。私はこれに応じた。

富澤とは、その後も富澤が塾や個人指導をやめた後まで付き合いが続き、その間に私は再度のインド旅行を試み、しかも大学を卒業するとすぐに結婚した。「小説が売れるまで」と就職せずに家庭教師のバイト生活したが、それは家人曰く「趣味」に終わった。

1995年ごろのことである。不動産屋からの連絡で、保証人になっている富澤が家賃滞納していると言ってきたので連絡を取ると、中央図書館の梯子から落ちて頭を打ち、中野総合病院に入院していたことがわかった。その後アパートを出て、しばらくホームレス生活をしていたが、生活保護者となり、ボロアパートの住人として生活するようになった。さらに同じ病院の検査で胃癌があることがわかり、その手術を受けた。

その後も、月に1回ほど、時間がある時に車で高井戸温泉に連れて行き、そこで寿司を食べるのが定例になった。なぜか富澤は毎回アジ、サバ、イワシと「ひかりもの」ばかりを食べた。今思えばそういったものに含まれる栄養素が不足していたのかもしれない。

富澤は、一日1000円以内で生活していた。朝は中野五叉路のロイヤルホストのカウンターでモーニングをとって長時間居座り、夜は、3玉90円のうどんを買ってきて、その一つをカセットコンロの上の鍋に入れ、余っている野菜を加えて煮て食べるだけ。刑務所の食事より酷かった。冷蔵庫や冷暖房は使わなかった。

2021年の暮れ、富澤から電話があり、「公園で倒れて救急車で運ばれて中野総合病院に入院している。足が寒いのでレッグウォーマーとオムツを買う用のお金を持ってきて欲しい」と言ってきた。しかし当時はコロナ下で、ナースステーションまでしか近寄ることはできなかった。

看護婦に病状を尋ねると、「カリウム不足」ということで、長くなると思うとのことだった。何度目かの時に、同じ看護士さんに、名刺を差し出して、「もし富澤に何かあったら電話して下さい」とお願いすると、どう言うわけか暗い顔で、「でもだいぶ認知症も進んでおられるので・・・・・」と言うのでこれは最後かもしれないと覚悟した。やがて、電話もかからなくなり、しばらくしてこちらから病院に電話すると、「そのお名前での在院者はいません。それ以上のことはお答えできません」と言うので、アパートへ駆けつけると、そこはすでに掃除されてもぬけの空だった。

富澤は死んだ。そして跡形もなくなっていた。だが、それは富澤の望んでいたこと。この世から完全に姿を消すことが彼の願いだった。

「オレが死んだら、灰を太平洋に撒いてほしい」

先年、富澤が幼くして亡くした実母の墓を探して新潟県魚沼を旅した時、ボロボロに朽ちて誰の墓かわからない墓を前にして、富澤はそう言った。

しかし、単なる保証人で親族ではないので、アクセスしようがなかった。どこかに富澤の骨が安置されているのかとも思ったが、わかったところで親族でなければどうしようもない。そしてもし、遺骨を手に入れたとしてそれをどうやって太平洋に流すのか?それは許可なくやって良いことなのか。

その後も私は何度も富澤と心の中で対話した。

私にとって、これほどまでに心の中で対話した「死者」はかつていなかった。

『源氏物語』について、何度も聞いたことがある話を繰り返し話す姿を想い出したりした。

大学入学後、富澤は大学で私がとった授業の、ジョージ・メレディスの『リチャード・フィーバレルの肖像』の英文会読を共に行い、私が禅に興味を持ち始めると、『無門関』、『碧巌録』の禅問答研究を共に行い、さらには『源氏物語』の会読を共に行なった。今思うと、市井周囲誰にも相手にされない知的題材を私と共有して楽しむがためだったかと思われる。後に富澤と共著で『源氏物語のラクラク読本』なるものを出版したが、これは富澤が書き過ぎるところを私が削除して作ったものだった。

生涯独身、天涯孤独の富澤は、私の結婚をとても喜び、数年して娘が生まれると駆けつけて手を握ったりした。

50年以上続いた師弟関係、それが富澤と私の縁だった。

その富澤が、誰にも看取られることなく逝ってしまった。

私に最も多くの影響を与えた人物が他界した。

だが、富澤は1937年生まれ、享年84歳、来るべき時が来たと噛み締めて堪えるしかなかった。