私の魚遍歴ー9 | JOKER.松永暢史のブログ

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マンボウの店主は言った。

「魚が死ぬのは酸欠のためだ。だから、ここにあるような酸素を入れれば良い。酸素は車の修理屋など溶接をするところにあるが、そんなのは大抵どこにでもある」

これには、アタマの中に火花が散った。イメージ記憶が蘇った。

水道橋の上の道のバス停の前は車の修理屋で、そこの入り口には確かに大きなボンベがあった。

そのことを伝えると、

「ホレ、このビニール袋をやるから、これにそこで頼んで酸素を入れて貰えば良い。そうすれば水は少しでも大丈夫だ。ほとんど死なずに持ち帰れる」

ううむ、そんな「手」があったか。しかし、修理屋にどうやって頼めば良いのか。

それができない最悪の場合は、手で「じゃぶじゃぶ」か、駅での水換えである。

しかし、なぜかやや考えて、「じゃあおじさん、破れた時のためにビニール袋もう一つくれない?」と言っていた。

「いいよ、もちろんいいよ。お安い御用だ」と言って、サラのビニール袋をもう一枚追加した。ついでに強い輪ゴムもつけてくれた。

 

オグラは野方駅にそれまで見たこともない白い野球帽を被り、手に網とバカでっかいバケツを持って足に長靴を履いて、子供っぽい「いでたち」で現れたが、これは実に似合わなかった。彼は駅まで自転車で来て、それを銀行脇に停めることを推奨した。

ヤマギシは、本人ものすごく残念がったが、どうしてもサッカー部の試合で来れなかった。彼は2年なのに「レギュラー」なのである。

さて、遠出の第一関門は電車に小学生料金で乗ることである。「遠出」であるがゆえになおさら、これは金額的に重要だった。

当時は券売機などの機械は一切なく、駅の窓口で行き先を言い、乗車券と引き換えにお金を払う仕組みだった。

前にも記した通り、オグラは筋肉隆々で顔も憎たらしく、どう見ても小学生というよりも「大人」だった。対して私はまだ背がそんなに高くないし、子どもっぽい顔だったから怪しまれないと言うことで、私が窓口で、「我孫子 小人 2枚」と言うと、ガラスの向こうの駅員が、ジロリとオグラを見てすかさず、「キミたち小学生?」と返してきた。実は当時私はまだ訓練の足りない「アマちゃん」で、ウソをつくことに抵抗があり、普段はもとよりこう言う時にとっさにウソをつくことができなかった。でもかろうじて「そうです・・・」と答えると、相手は付け込んで、「何小学校?」と聞いてくるので思わず私が怯みそうになると、すかさずオグラが前にしゃしゃり出で、「野方小学校です」とキッパリとした口調で答えた。すると、駅員は明らかに疑いながら、今度は「担任の先生の名は?」と聞いてきた。これもオグラが「宮崎先生です!」と即答し、仕方なく駅員は小2枚の切符を出してきた。

実は「宮崎」というのは、先日教室でオグラが「オイ、カッパ、オマエがこの学校で一番可愛いと思っている子は誰やねん」と根掘り葉掘りしつこく聞くのでつい口にした女の子の名前だった。私はオグラの機転と勇気に驚かされたが、本人は、「なあに、小学生に学生証なんてあるかよ」と軽くほざいた。