他の人が書かないことを書きたい。
なぜ子どもに「受験勉強」させるのか。
それは、この安定平和な社会の中で、子どもに、より賢明な、そして未来幸福につながる選択を与えたいと願うからだろう。
では、その「幸福」のイメージとはいったい如何なるものかと一言で具体的に言えば、「よりレベルの高い中学校に入学すれば、よりレベルの高い大学に進学することができて、その結果、医師、弁護士など高度な資格を取るか、あるいは官公庁や大企業など、「天下り」が保障される可能性が高いところに就職し、経済的な安定を得させるため」ということになるのが普通であろう。そうでなくとも、その能力を活かし、研究者になったり、起業家になったりすることを目指させる。しかし、個に潜在する能力を開花させて成功することにはもっと広い世界がある。
ともあれ、周囲の者より有利な状態に身を置きたい、いや置かせたい。
勉強ができる、つまり、難しいことを理解する能力が高いとは、良いアイデアを得る能力とは別の能力である。どちらかと言えば、難しいことを正確に理解することに努力しすぎた人は、素晴らしいアイデアを出す能力の伸長を抑制した人たちと言える。
何をするか思いつけない。
自分が何をしたいかわからない。
これでは生きている意味がなくなってしまう。
何か自分のしたい、より良いことを思いつく力、いや、今自分のするべきことを思いつく力―これは「安定」どころか、逆に「危機」に瀕した時になくてはならない、これさえあればやっていける能力であるはずである。
自分のしたいことを思いつけないーもしこの能力が身に付かなければ、たとえ何歳まで生きようとも人生はつまらない。人にも愛されない。なぜかと言えば、人のためになる良いことも思いつけないからである。金を稼ぐためにだけ働く「奴隷」だったことになる。
良いことを思いつく能力は、子ども同士で外でよく遊ぶことや、何かをじっくり観察する、あるいはじーっと何かを自由にイメージし続ける習慣を阻害されないことによって培われる。
情報吸収が中心の長期の受験勉強は明らかにこれを阻害する。
だから必要最小限で済ませたい。
子どもの思いつく能力を低下させたくない。
しかしここに「秘伝」=「裏ワザ」がある。
それが「最低点法」である。
入試過去問の徹底研究により、合格最低点をクリアするためには、その大概から細部まで、どのようにすれば得点できるようになるかを次々に自分で思いついて実行することである。
受験を遊びにする。
あたかも「偶然」の如く、合格してみせる。
じゃあどうするか?
これなら、着想力を失わせずに受験勉強できる。
まあそこにはある程度の「忍耐」は必要だが。
するとそこに、次にどうすればそのストレスがすぐ解放されるかを思いつくことが必要になる。
入試の合否が着想力で決まることはよくある。
じゃあどうするか?