教育が教えないことによる「洗脳」の見事さについて | JOKER.松永暢史のブログ

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自由勝手に書くことを「趣味」としているが、それでもどう言うわけか、何度も脳裏をよぎって書かないことがいくつかある。

書きそうにはなるが結果的に書かない。

なぜか?

何度か繰り返しそれを経験すると、それが「洗脳」によるものであることがわかってくる。

自分はこの国で教育を受けた。いくら反発しても、ともあれそれを受け入れた事実とその潜在的影響は強い。

私はこの国の「教育」の影響を受けた。

ゆえにその「洗脳」を免れ得なかったと認識する。

それは大人になってからの自分個人の経験集積的な倫理観ではない。

幼い時に、まだ分別のない時に刷り込まれた、家庭的、文化的、社会的「洗脳」である。

当たり前すぎて今更口に出すのがバカらしいこと、それはこの社会が「資本主義」とも言える社会であることである。「この社会」と言うのは、何も現代を指してだけ言うのではない。古代社会からも、貨幣というものが流通するようになってからも、それは同じだった。それが良いとか悪いとか言うことではない。それが「事実」と言うことである。

物を流通させる。商品を流通させる。自己の領域内にある何物かを、それを求める他の者に物や金と交換させる。

物を生産するためには、人の手が必要である。農産物はその代表であった。

生産者が生産物を直接転売することには限度がある。そこでそれを束ねる者とそれを流通させる者が現れる。

生産者から安く買う、あるいは召し上げる、あるいは大きな労働を課す。

そのためには武力行使も厭わない。

その象徴が欧米による植民地主義政策と現代社会。

わかっているって、こんなこと読みたくないことを。

それは先も言ったように我々が「洗脳」を受けているからだ。

つまり、言いたいことは、この世は過去からずっと資本主義社会であり、お隣の統制的な「共産主義国」がやっていることも「資本主義経済」に他ならないということである。

人が求める商品を作る。それは農産物からサービスまでありとあらゆるものの可能性がある。

そのためにはまず、それを思いつかなければならない。

多くの人が欲しがるものを思いつかなくてはならない。

つまり、資本主義社会に生きる上で最も肝要なことは、商品アイデアを出すこととその生産流通実行である。

したがって、その資本主義社会下に生きる子どもたちに最も与えるべき能力は、他者が欲しがるものを、あるいは他者が喜ぶことを思いつく能力であり、自分にとって好ましくない命令でも、おとなしく服従する能力を優先するべきではないことは明らかということになる。

服従することは努力の対象ではない。忍耐を学ぶことであり、なぜそれをしているのか問わない習慣である。

であるところをもって来て、世は「グローバル社会」、さらには恐ろしいほどネット環境が発達した世の中になっている。

今こそ必要なのは、世界が求めるアイデアであり、それを生み出すチカラであり、その本を与える教育であることは明らか。

もちろん、自己の特殊性の顕現とその普遍化でも良い。それを楽しくネットで紹介するだけでも収入を得ることができる。

学校で子どもたちに絶対に教えないこと、少なくとも「隠蔽」されることースルーされていることーそれはこの世の中が資本主義社会であり、そこで最も必要なのが、他者が求める商品を思いつく力であることである。これは「教えない」と言う「洗脳」である。でも、「洗脳」であるから気がつけない。

てなことを、『日本の教育、ここがヘンタイ!』に書いたら、全く売れなかった。メディアにも黙殺され、出版社にも「つまり、求められていなかったと言うことですね」と言われてしまった。「敗北」である。「洗脳」を甘く見ていた。

洗脳はものすごい。よく考えてみれば簡単なことでも、それが解かれるのに長い時間がかかる。

特に子どもの頃に受けたそれは。

人よりも良い生活、豊かで安定した生活、それに必要なのが「学歴」で、その獲得のために小学低学年から進学塾に通って、中学入学後も進度の速い教育を受け続け、大学入学後も単位を取り続け、優遇の大きい大企業に就職する。その間、この社会が資本主義社会であることを捨象していきた場合、これは結果的に一種の「奴隷」になることを自ら選択していることになってしまう。

もし学的好奇心ではなくて、人より豊かな生活を目指すのであれば、大学で学ぶべきは、商品やサービスの着想と開発や、ビジネスを始めるためのノウハウであるはずであり、できるだけ早く起業する力を身につけることである。また、一歩譲って、なんらかの高等な資格を取るためでも良い。

さて、すべての大本のそのアイデアを出す能力とはどこからくるのか。

それは子どもの時に友だちと群れてよく遊ぶことであり、ある状態からどうしても脱出したいという願望を持つことからである。

良いことをどんどん思いつこうとすることは自由だ。

だが、それが「洗脳」によって抑制されることに自覚的でなければならない。