7日朝、秋の快晴の空の下、いつもより早めに教室に出ると、そこには10人ほどの子どもたちとその親たちがおり、女性二人の講師による音読道場が開かれていた。
カタカムナに続いて、古今集のカタカムナ読み。
子どもたちの声が唱和して本当に綺麗だ。
「素晴らしい!」としか言いようがない。
聴いているだけで気持ちが良くなってくる。
それはこれをしている子どもたちが先々日本語の学習で躓くことなく伸びていく姿が想像されるからでもある。
口の形を言われてもきちんとやらない子たちもいる。でもみんなで唱和したこの音を耳にすれば、誰でも日本語の本質を掴むことができる。
子どもたちが確実にアタマ良くなっていく手応えー教育に携わるものとして大きな快感である。
とにかくここでこれをしている子どもたちは幸運である。
親が気づいたことが幸運である。
夜はリベラルアーツ上級で『臨済録』。「行録」、「上堂」、「示衆」と読み進めた。
禅問答の有り様を意味だけではなく、その場の状況を具体的にイメージしようとして、これをいくつか重ねると、9世紀の中国の山の中で男たちが夢中になってしていることが何であるのかが見えてくる。
それは言語と行動において、一切の隙を見せないこと。
瞑想で研ぎ澄ましたアタマを実際行動においても維持顕現し続けること。
それはある種のアタマの良さのカタチを確実に提示してくれる。
ともあれこれほど国語の読解能力を簡単に高める方法はない。
カタカムナ音読とリベラルアーツ。
生徒たちに、秋の気温が下がってきた時のアタマが良くなる学習集中方法を教授した。
より大きな実りを!