奥多摩近地満月 | JOKER.松永暢史のブログ

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昨夜の満月もすごかった。

就寝前に、参加者全員が20分以上御嶽の北の裾野に出た月を堪能し、「同調」した。

ド 満月近地点の月明かりにその顔を浮かび上がらせる生徒たちに、

「目を瞑っても、この月が見えるか?」と尋ねると、一人が、

「エッ?大人になると見えなくなるんですか?」と禅問答的に尋ね返すので、

「そうよ。大人の多くは『夢』の意味を取り違えている。イメージというものの実際を捨象して生きているのが普通だ。多くはそのきっかけが「教育」の力によることに気がつけない。そして、それと同調することによって、イメージする力と発想する力が奪われてしまうことに自覚的でない。運悪く私と知り合った諸君は決してそうはならないように決意せよ!」と語ると、これを一応ダマらせることに成功した。

新しく張った簾と布タープの連続は、外からの見た目が涼しそう。なんか美しい。それは、炎天を避ける気持ちが前提として伝わるからだ。中になんか良いことがある「店」を想像させるからに違いない。

その傍らでブヨハチに懲りない大澤が鬆(す)の入った巨木二つを次々にそして注意深く伐採する。

そこには次々に変わる創造性がある。

業務用巨大扇風機導入は良かった。

そこには、珊瑚荘全体を涼しく吹き抜けるパワーがある。

すっかりおとなしくなって、信じられないほど高校数学学習に集中する「ダイナマイト」君に、「なんで初めからこれをしないんや?」と言われたそうだが、結果的にはもっともなことだった。「関西」ではなく、「京都」弁ぽい反語は、褒め言葉を上手に増幅させる力があると思われた。京都系大阪方面の言語使いには、「ツッコミ」をする際に、そこにあらかじめ相手がどう反応するかという、無意識的な直感認識判断がベースにあることがわかる。そこにコミュニケーションの「ワイド」さが感じられる。もちろんさらに「即興」的言語使用があろうが、そこにあるのは「規定」を免れる言語の自由性であろう。仕方なく標準語を学ぶダサさが浮かび上がる。

考えてみれば、日本語の元は全て京都言語だった。日本語古典のほとんどは京都で作られた(いやすいませんが、どうもそのもっと前はやや西の神戸山中ら辺で伝えられた「カタカムナ」であったらしいという「説」が・・・・)。

「ダイナマイト君」―彼はこの合宿に連続参加4年目である。

実はこの呼び名は、3年前の合宿の最後に、その母親から贈られたダイナマイト型のスイカによるものだった。

「うちの子の代わりに」

京都女性のふざけの力のレベルは高い。

しかしそれは、それを相手がどう反応するかをあらかじめイメージする力があるからである。

単なる思いつきでは「田舎」である。

そこに「味」がなければ、「ダイナマイト」は炸裂しない。

合宿参加者の親たちの中には「ダイナマイト」を送り込んでいるという自覚があるらしいのである。

我々はすべて彼の成長ぶりに瞠目した。

つい「禅問答」にひっ掛かった彼は、「イメージ」について、私の「たとえば女性の裸体のリアルな姿なんちゃって」という「変化球」に対し、

「そりゃ我々年頃の人間が、そのようなことをイメージするのは自然で致し方ないことでもあるのではないかチューもんです」と、見事にこちらの枯れた老人性を見透かしたような返答をする。

善哉善也。

数ヶ月前、生徒の一人が、裏山に植えた栴檀の木の下の方に伸びた大枝に乗って、これを折った。

「イージマクンガヤリマシタ」とアブラが繰り返し伝えてくれる。

だが、アブラくんには気の毒だが、結果は彼が本当は喜ぶかもしれないことになった。

生徒が乗って脇枝を折ると、その「残り」が真っ直ぐ急速に上に伸びて見事な樹に成長しそうな気配を見せる。

その背後に植えたジューンベリーは、草と蔦を取り払うと、そこに鳥の巣の姿を浮かび上がらせた。

生徒の一人がこれを取り上げたが、見るとそれは「芸術」としか呼びようのないものだった。

誰から習うこともなく本能で作り上げる「芸術作品」。

いや自分が雛の時の「記憶」があるのか。

「体験」が全て。

「体験」における「感受」こそが、結果的認知を齎す。

そして知能は、その「認知」を経由してしか現象しない。

これは「事実」ではなくて、「真理」である。

「環境設定」―だから我々はどんどんその在住する生活空間をよくしようとする。

臨機応変、あるいは変幻自在に、そして、出前迅速に、できるだけさらに良いことが起こりやすい環境を設定しようとする。

そうしようとしていることを子どもたちに感じさせる。

その「エネルギー」が子どもたちに伝わる。

目の前の大人が一生懸命働く姿を見せることも「教育」だ。

「偽り」の形式的な感謝を教えるつもりはない。

自己存在の有為性の確認においてこそ、それは自然に発生・実感される。

それは自分からエネルギーを出して知能の壁に挑戦することだ。

学問も、日常生活も、全て「旅」とするとき、そこには新たなる、新鮮な自己認識の拡張がある。