リベラルアーツ上級は、ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読み終わり、その次は『臨済録』、『無門関』をテキストに、禅の世界の考察に入ることになった。
初級は、『出エジプト記』に続いて『創世記』を読み始めた。そこに書かれているのは幼稚園生なら信じるかもしれないが、普通の大人にとっては「物語」としか言いようのないものである。しかし、ユダヤ人の多くが読むことになったその記述は、他にあまり類を見ない空想力構想力に加えて見事に昇華された、極めて記憶に残りやすいものであり、これを子どもの頃からヘブライ語で音読すると確かに頭に良い、つまり全ての知能活動の元の言語能力を高くする気がする。キリスト教の教会学校や、プロテスタントたちの聖書音読の効果も彷彿させる。
宗教は、その賛同者=教団によって、初代宗主の言行録を後世に伝えるシステムである。そしてそこには、独自の儀式と「神」がある。しかし、その実態を教育的な観点から抽象化すると、そこで共通的に行われていることは祈りと言語の教育である。
祈りはアタマの状態を正常化する。言語はアタマの状態を高める。この二つのイイことを教えられて、その効果が大きいことを信じられる人が「教徒」となり、多くの場合その教団が拡大するために奉仕や布施を行うことになる。
ここでおかしなことになる。教祖は、物品は奉られたかもしれないが、少なくともキリストやブッダは無所有である。そこにあるのは身一つの言動だけ。だが、その教祖の言説を伝える教団は、その存続のために信者から「税」を集めざるを得ない。その時、その説得性のために教祖は「神」となる必要がある。
教祖ではなく、「神」の言葉として、現れたことを書き表すと、そこに書かれていることは、その「信者」にとっては「事実=現実」ということになる。
神がこの宇宙を創ったと言うが、その「神」を作ったのが「人」であることには間違いがない。
「神」は人間の「創造物」であり、スピノザに言わせれば自然法則そのもの。
しかし人間は超自然的な存在を夢見て憧れる。
そうしないと、「死」のことを考えた時、「安寧」を得られない。
大自然の中で夢を見るーそのことによって人は発達してきた。
自然と一体になることでその背後にあるものの実在感に導かれて発展してきた。
リベラルアーツは、筆者多忙もあり、8月中休会となった。参加者たちに、その代わりに「文章作品を作ってこい」と指示を出した。
9月初頭は、その作品の発表から入ることになる。