「自分」であるのは愉しいことか。
「自分」でなくなる、自分ではない高度な「自分」になることが「愉しい」のか。
両者とも愉しいことであることを認識した時、人はどちらを選択しようとするべきか。
自分自身であって、「自分自身」ではないこと。
それができることを「芸」と呼ぶのか。
「芸」とは表現行為のことである。
「芸」とは心情表現である。
自分でありながら、自分ではない自分。
それは「快感」に違いない。
「観客」に向けて、大声で歌う。
人々の前で、想いのままに踊る。
そのとき人は、自分でありながら、「自分」ではない。
すると、心情表現者として自分が高まるとき、「自分」が喪失する。
「自分」が喪失するのは、「アメノウヅメ」―シャーマン的エクスタシーの時である。
逆に「自分」を深く自覚するのは、メディテーションの時である。
しかし「瞑想」は、自己に対する意識を超越することこそがその「目的」である。
人は、意思の力によって、ありのままの自分を認識して客観化して受け入れ、同時にその感受を「心情」と捉え「逆噴射」する。
これをしないことは、適切な呼吸をしないことと同じである。
「表現」には、「意志」の力が必要か。
いや、「表現」とは自然に出てしまうものであり、その「深淵」を探ることは誰にもできない。「波動」の世界である。
そこには、「感じる力」、「発想」する能力が顕現するが、そのことに自覚的になるほど、多くの人は「賢明」ではなくなるのが普通である。
「エゴ」への無自覚が勝つ。
しかし、「境界線上」で、新たな「未来」が起こる。
芸術的行為の理由、それは自分を高める手段であることであるが、そこにはなんらかの「意志」のエネルギーがあることを忘れてはならない。
今の自分に耐えきれずにその「自分」でなくなること。
その「expansion」を「進化」と呼ぶことになるのではないか。
世には、「必然」を前提とする芸術と、「偶然」を探索する「芸術」がある。
そこでは、「センス」の判断が起こるが、芸術家が「大衆」を意識した瞬間、その営為は、資本主義的には正しいかもしれないが、ほぼ無意味化する。
でも、その「辺り」に、「未来階層」が何かを解く「鍵」があるのではないか。
以上、わかりきったことの「提案」で申し分けない。