様々なことが過ぎて行く。
そこにあるのは経験のない新しいことばかりだが、いやこれまでにもそうしたところを通ってきた気もする。
みんなが自主的に協力して前へ進もうとする歓びーいささかひねくれ者の自分でもそのことによって味わい難い「悦び」を得る。
事務所移転は、いよいよ本格化している。
内装工事、デスク、イスなど必要備品購入。
引越しの算段。
資金が続く限り、とことん子どもたちのための「癒しの教育空間」を演出したいと思う。
それが私の「想い」である。
昨日は、京都日帰りした。
最終稿ゲラを終えて、朝7時に家を出て、8:00発の「のぞみ」に乗った。
京都着10時15分。前田と合流して地下鉄を出ると、外は雨。
京都に小雨が降ると渚ゆう子やベンチャーズを思い浮かべるとはなんとも歳をとったものだと密かにそんな自分を嗤う。
午前に音読指導者認定式。音読の技術よりも、そこに集まった極めて興味深い人たちと接することができて「物書き的満足」。
これで音読指導者認定終了者は50名を超えた。50名が50名に伝えるとすると、2500人。まだまだ足りない。我々はこのカタカムナウタ音を日本中の子どもたちの「耳」に届けることを目標にしているのだ。
今回は神道系に詳しい敏感な人が多かったが、関西方面の「レベル」は、当たり前のことに思いのほか高かった。
やはりここから「日本語」が生まれているのである。
しかし、「カタカムナ」がどこから来たかは「謎」である。
山口・鳥取からの参加者の存在は本当に嬉しかった。
実は「パリから」と言う人もいた。
カタカムナ音―こんなに子どものアタマに良いものは他にない。
これをやれば誰でも日本語能力が飛躍的に向上する。
いややるだけではない。ただ耳にするだけでも日本人の子どもの言語潜在能力を高めることができる。
こんなに良いメソッドは他にあり得ない。
ヴィトゲンシュタインの哲学的営為を高く評価する、バリバリの無神論者がそう確信する。
全ての学習の元の日本語了解能力の「オト」を全ての日本人の子どもに伝える。
それが真の教育の「機会均等」と言うべきものだ。
なぜ私が半世紀も個人教授の仕事を続けてこられたかーそれは私が各々の子どもの「能力開発」を心がける指導者であったからである。
子どものアタマをヨクする。
でないと、「教育」はあり得ない。意味がない。
私はそれを「確信」した。
それにはまず、目の前の子どもの日本語能力を高めることである。
当たり前の帰結だ。
教育の前提基礎とは、目の前の子どもの言語能力を高めることに他ならない。
完全に好奇心に基づいて集まった人たちへの発話は、どうしても熱のこもった行き過ぎのものになってしまいがちである。
だからこそ、愉しかった。午後の講演はほぼ言いたいことを喋れた気がする。
それは「聴者」の「感性」のヒビキによるものだった。
そこには、あらかじめ伝えることを受け入れる「準備」があった。
小雨降る京都に行って本当によかった。
来てくださった多くの方に感謝する。
でも、この人たちは知らないことだろう。
19日 18:06近地点が過ぎて、今日20日 16:06に新月直列になることを。