昨日は藤沢の商工会議所に行った。音読、サイコロ、作文の解説講演をするためである。
環八を走り、第三京浜を走り、横浜新道を走った。
私は「銅像」を残すようなことは望まないし、自分がその価値もない存在であることは弁えている。
また自分のしてきたことへの「評価」の執着があるわけでもない。
私はプロの家庭教師として生き残り続けるために、いくつかのメソッドを着想・実践してきた。
そのメソッドの柱になるものは、カタカムナ音読法、サイコロ学習法、抽象構成作文法であるが、これらは他に類例を見ないほど効果が大きいメソッドで、また誰でもそれをすることが可能なものだった。そしてそれを学んだ全ての子どもたちに大きな「恩恵」を与えることができる。学問を始めるための「土台」を与えることができる。
すでに何度も述べてきた通り、受験や進学に成功するためのコア中のコアの能力開発は言語能力を伸長して文章が書けるようにすることである。また中学以降の数学で苦しまないためには、数値のイメージ計算の習慣、つまりサイコロ学習法による暗算能力の開発である。
日本の「愚民化教育」下にあるのは、国語了解能力を高めない、紙の上のドリル学習ばかりで、脳内数学イメージ力を与えない、そして作文を書けるようにしないが少なくとも明らかであるが、それの正反対をいくのが私が開発したメソッドである。
学校教育で欠落した部分を探る。
なぜ全ての子どもができるようにならないのか。
それはそこにその理由がある。
ゆえに、わざわざ日曜日の午前、そうした話を聞きに集まる人は、既成教育の無意味さに気がついている人たちだったと思う。
私立大学のしていることが「詐欺」同然の金集めであること、またそれに合格者数を増やして生き残る私立学校も「商売」でそれをしていること、さらにはその受験勉強を指導する進学塾も商売でやっていること、まずこれを明らかにした上で、では子を持つ親はどうすれば良いのかを話した。最後にこの地域の人たちで、音読指導者養成講座を修了し、サイコロ学習指導も身につけた指導者たちの紹介を行なった。この人たちがこれからこの地の子どもたちを救ってくれるのである。
私は私がたまたま着想するに至った能力開発教育メソッドで余計な利潤を追求するつもりはない。
もうそれで充分に暮らせてきたし、何よりも数えきれないほどの子どもを救ってきた。
これは、日本国中の公教育で行うべきメソッドであると確信する。
これを施せば、のちに徐々に学年が上がるにつれてこそ重要になる、子どもたちの言語能力伸長、数学的イメージ力の土台を与えることができる。しかもそれを選択する全ての人と子どもたちにである。
子どもにとってそんな良いことを自分だけが知っていて、それを世に広めないのは教育に携わるものとして「ナンセンス」である。
つくづくそう思っていると、EDORG前田がそれに全面的に協力してくれるという。
その一連の活動の一つが、今日の藤沢講演会だった。
とはいうものの、今年も花粉ついに本格的に到来。声とアタマのコンディションが悪い中での講演。しっかりその内容を伝えることができたかやや不安でもある。ただ会場に集まった人たちは、一目で直感的に受け入れ体制の整っている人たちに感じられたので、いつもより一生懸命話してしまったようだ。現段階ではまだ、私の教育論を聞こうとする人たちはやや「変わり者」の、実はしっかりした考えのある人たちなのであると思われた。
会後に昼食をと思って、数名で藤沢駅南口などに行ったが、日曜日のお昼時、人気のあるお店はどこも予約をしなければ入れないのは当たり前だった。もはや観光電車と化した江ノ電が頭上を走るのを目にしたのみ。やむなくそこで諦めて一堂解散することになった。
実は、藤沢行きに2時間見て、1時間で着いたので、講演の前にその辺を散策した。まず「河合塾」の存在を確認し、神奈川に来ればよくある「臨界セミナー」、おまけに「Step」という看板を確認し、やっぱり住宅圏の親はこうした教育産業のカモなのだなあと改めて思った。でもそれは仕方がないことでもある。みんなどうしたら良いのかよくわからないから、少しでも教育に詳しそうなところを選ばざるを得ない。
と、歩くうちに「シュクリア」と云う名のカレー屋を見つけた。
懐かしい。「シュクリア」とは、ウルドゥー語で「ありがとう」の意味である。
しかし、そこで時間潰しをすることはできないので、「ベローチェ」とかいう外食産業コーヒー店に入ったが、このコーヒーはそのまま床にこぼしたくなるほどの、いわば化学薬品的でコンビニのものより不味かった。出している側も、飲んでる側も、両者にまともな味覚がないからこそ成立する産業の存在を確認して改めて悲しくなった。
さて、前田さんたちとの昼食を諦めて解散し、改めて興味深く思っていた、車を止めた北口商工会義所裏の、そのカウンターだけの「シュクリア」に入ってみると、六百円のポークカレーはCoCo壱のカレーよりもさらに不味い化学調味料カレーで、半分も食べられなかった。コロナの味覚障害後遺症が出たのかと思うほどだった。それでも店は満席だった。店を出る時は、「シュクリア」ではなくて「ありがとうございます」と声をかけられた。
藤沢の町に来たのは50年以上ぶりか。当時は平屋の駅舎があるだけで、まだビルらしきものはほとんどなかった。
三鷹、武蔵境、国分寺駅の変貌ぶりにも、練馬駅、石神井公園駅同様驚き禁じ得ないが、藤沢や柏、大宮といった新興住宅地の駅前のシステムにはやはり驚かされる。それになんという高層マンションの多さ。噂では戸塚はもっとすごいとのことであるが、至る所に駅に続く地上歩行通路があり、自分がアリにでもなったような気分になる。
そしてこの街では、おそらく下北沢や吉祥寺同様、美味しいものの追求は、お客の懐具合から不可能なものであることが推察される。
もはや、自分で良い食材を選んで、自分で作る以外に、満足の得られる食べ物は得られない。それはどこでも同じことである。
ここ藤沢の街にもそう考える人たちが少なからずいて、その中の何人かが今日の講演会に来てくれたのかとも思った。
しかし逆に、世の中には、つくづく自らが「洗脳」されているとは自覚できない人たちのおかげで成立していると改めて思ってしまった。
味がわからないーそこでは本来貧富の差は関係ない。