「愚民」の自覚と百人一首 | JOKER.松永暢史のブログ

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以前にYou-Tubeで、堀江貴文氏と東浩紀氏が対談するのを視聴したことがある。

堀江氏は、「ツイッターなどで炎上を起こす、5行以上で書かれた日本語文の意味を読み取れない人たちはもうどうしようもない」という考えを示す。

対して東氏は、「ゲンロンなどの活動を通じて一般の人を啓蒙していくことが大切」と述べる。

私はこのどちらも正しいと思う。

今年は、堀江氏やひろゆき氏に加えて、成田悠輔氏などの新しい世代の言論家たちがネット上に現れ、先輩の宮台氏同様、驚くべきアタマの回転の速さや、新しい発想力、新しい視点を所有する能力を見せつけた。

彼らのしていることを一括りで語ると、それは一種の「大衆の啓蒙」である。

そしてそれは、言語能力の異常発達した人たちからの、そうではない人たちへの「刺激」である。

彼ら通常を超えた言語発達を可能にした者たちの共通点は、プログラミング言語を操ることができることである。

私はプログラミング言語を学習したことがない者であるが、そこになんらかの言語的知恵が潜んでいることは、その経験のある生徒たちと接した体験からも明らかだと思う。

しかし、なぜ彼らがプログラミング言語を使いこなせるようになったのか?

それは、プログラミング言語を解説する日本語を理解する力があったからである。

それは翻訳された日本語であるかもしれないが、彼らはそれを読み取って理解することができた。

東大にあまり受験勉強しないで合格する者は、数学や国語記述で高得点する者たちである。

数国英合わせて220点以上あれば、仮に理社がなくても合格してしまう。

これでは結果的にSFCの試験とある意味で同じといえば同じになってしまう。

東大国語で高得点する者は、12歳時点で筑駒や麻布の国語入試で満点近く取る者たちである。

つまりそこに書かれていることを読み取って、設問に正確に記述解答する言語能力である。

ではさらに、その言語能力は何によって培われたのか。

それは読書の習慣と文章を書く習慣である。

ではさらさらに、その習慣はどうして身についたのか。

初期の段階で言語の習得能力が高かったのはいったいなぜなのか。

いったい彼らの幼児期にいかなる「音」がその脳に届いたのか。

どうやって公教育の言語的弊害から身を守ることができたのか。

それは子守唄なのか。

それとも和歌や俳句の一音一音読みか。

上手な読み聞かせか。

テレビやラジオから流れてくる音だったのか。

誰かが漢文を素読する音なのか。

今年は、ネット上などで「愚民」という言葉が流行ったと感じる。今日で今年は仕事納めであるが、今年も小学生たちに、お正月に百人一首のゆっくり一音一音歌い詠みを勧めている。もしそこに親族など幼い子どもがいれば、その子の耳にその音と響きが届く。

私は「言語的啓蒙」とはそのようなことが広まるようにすることだと思う。

自分たちの言語よりも、次世代の言語がより高まるようにすること。

それを意識的に行おうとすること。

そのようなことをしていれば、成田氏に「切腹」を申しつけられることのない老人になれるかもしれない。

こうしてみると、SFCが言語能力に優れた者を採り、その者たちにプログラミング言語能力とビッグ・データ処理能力を与えようとする教育方向性は、当面は未来方向性的に正しいことをしていることになるのか。そして努力した東大法学部出身者たちは、そうした素養を身につけることが少ないために、旧世代的言語環境世界の中で、自らの優越性を、他の者より保証させることによって生き残りを図っていくということになるのか。すでに文1の偏差値は、文2、文3と並ぶかそれ以下になってしまっているが・・・。

私は知りたいが、もしも「愚民」がいなくなれば、この世の中はいかなることになるのか。

資本主義社会は成立するのか。

紅白歌合戦などは見ずにこのことでも考えたい。

「愚民」の一人を自覚するがゆえに。