完全に立派な人間なぞいない。
「部分」が完全でも「全体」が完全であることはあり得ない。
ソクラテスが「完全」だったか、キリストがそうだったか、孔子がそうだったか、ムハンマッドがそうであったか、ブッダがそうであったか、歴代の聖者がそうであったか。
それは完全に「アウツ」である。
人は皆、「完全」であることはできない。
あり得ない。
少なくとも物を食い、それを排泄する。
モーセ以下いかなる聖者も、クレオパトラも楊貴妃もウンコをしないものはいない。
人は物を食し、糞を出さずにはいられない。
それが可能なのは、「死人」だけである。
だからこそ人は、「神」を造る。
―自分が立派な人間ではない。
それは生きている限り人が背負う「宿命」である。
必要以上の環境消費をしているだけでも、自分が生きていない方がこの世のためであることは明らか。
自分の朽ちた肉体は、焼かれて埋葬されて、自然のための何の役にも立たない。
ではなぜ生きるか?
それは、たまたま生きているからに他ならない。
自分はたまたま生きている。
それは周辺世界を考察察知すれば、確率論的になおさら明らかなことである。
では、もしたまたま生きているのが「事実」であるとすると、その「たまたま」は何に使うことが正しいのか。
「たまたま」の使い道は、「アレだ!」と蛇推する人もいようが、それが「光合成」以下のことである場合、意味がない。
そんな「たまたま」の世界で、自分を「立派」だと名乗る人は「異常」である。
「たまたま」を実在的銅像に残そうとするなど、「バカ」の表明に他ならない。
聖者は人間的確率論を超越している。
「星」のように、「点滅」している。
全ては「たまたま」なことであるのだから、その『たまたま』が「誇り」につながることはあり得ない。
全てはたまたまだったのである。
ちがうか?