教師が「教師」であることの快感。それは目の前の生徒たちに自分の言うことを聞かせる時の「自己満足」ではない。
そうではなくて、自己との「関係性」において、子どもが賢くなっていると言う「快感」である。
もう一度再確認したい。
教師の仕事の歓びとは、目の前の子どもが賢くなっているということの実感に他ならない。
自らそのことを己に問うて、その答えが得られない人は、「教師」と言う仕事にふさわしくない「人材」である。
これは、「宗教」や「思想」に関係ない。
自分のするべき仕事ができない労働者。
それを「公務員」とすることはいかがなものであろうか。
子どもたちを賢く育てることをしようとしない教師。
自らの処遇をこなすことで精一杯の労働者。
与えられた仕事をこなすだけのまるで「昆虫」のような公務員。
「地獄」を救う「社会福祉」。
今、多くの「わかっている人たち」が公教育を離れようとしているが、そうではない人たちの子どもたちはいったいどういうことになってしまうのか、その「推測」をここに述べることは差し控える。
夏休みに入って、さらに多くの新たな「情報」」を仕入れるが、もう学校教育の改革は、「人材」に関わる次元ではなくなっている。
「終わり」が近い。
それを意識しない人たちの子どもたちが「犠牲」になり、親も無意味な「経済的努力」をし続けることになる。
こんなひどいことを容認する大人たち一般の「精神状態」が理解できないと思うのは、子どもたち同様、私だけであるのか。
それとも、「世の中」とは、歴史的にそう言うものだと敢えてボーっとすることを選択する「無意識的認識状態」に帰着するのか。
目が覚めることと目が覚めないままであることのどちらが「快感」であるのか、
「新自由主義」が根底から問いかけるのはこういったことではないのか。
全てを忘れて眠ることは、「死的」な快感である。
「ダイアローグ」を捨象した状態。
だとすると、生きている上で、その「至上の快感」を得るためにするべきことは何なのか。
このダイアローグに答えることに躊躇する者は、永遠に同一境界円周上を就航し続けることに自覚的ではない者たちであろう。
このブログは、わかる人にはわかる「冗談」の延長線上の意識を下に書かれている。