今年もなんとか生き延びたが、一方またもういつ死んでもおかしくないとより強く思う自分もいる。
私たちは、子どもの時のあるときに、ふとしたときに、周囲に自分にとっての理想像である「異性」に出逢う。
「マドンナ」などと言う言葉があるが、それは人によって異なる。
まだ自分の「趣味」・「趣好」がわからない段階で、母親以外の一女性に好感を抱く経験をする。
おそらく、そこを起点に、その人独自の「趣向」が形作られ始める。
それは幼稚園や保育園などでの遭遇体験かもしれない。
同級生の女の子?実はそれではピンとこない。
もしも、お互いとても楽しいことで盛り上がって仲良しになることはあっても、それをあたかも結婚対象であるようにはまず思わない。「お友だちに」すぎない。彼女たちは自分と同じ「子ども」に過ぎない。
多くの場合、そこには光源氏同様、親族の年上の女性への思慕が先行すると思われる。
幼稚園の若い先生を思慕した覚えのある男性は意外と多いのではないか。
そうした経験がなければ、『源氏物語』などの文学作品を深く味わうことはできない相談かもしれない。
その女の人は、父方の従姉妹で5歳年上だった。
自分は、父方の親族従兄弟に歳の近い男の子を持たなかったので、お正月に祖母の家に集まると、女の子ばかりで男の子は自分一人だけだった。
自分は今もそうだが、女の人と何かをして遊ぶのが苦手で、ままごと遊びとか女の子のする遊びを全く楽しいと思えない。付き合うことすらできない。女の子の「集団」が苦手だった。自分の入る隙がない世界に思われた。
でもお正月やお墓参りの時に出逢うその従姉妹を美しいと思い、愛らしく感じた。
親族の集まりの中に彼女の存在を確認するとなぜか嬉しかった。
「花」が咲いた。
私にとって彼女は「源氏」にとっての「藤壺」だった。
母とは結婚できぬことを知った時、それではとその次の候補に上がったのはこの女性だった。
この女性は、大学で知り合ったと思われる人と結婚し、一男一女を産み、孫も四人恵まれていると聞いていた。
密かに彼女の外観や雰囲気にふさわしく幸せな人生を送っていたようだと想った。
この女性が、この暮れに突然亡くなった。
寒さのせいかもしれないが、死因は不明とのことである。朝安らかに床の中で冷たくなっていたそうだ。
昨日通夜を訪問したが、そこにはまだ「若く」しての死ゆえに、悲壮感が強く漂っていた。
自分もいつもと異なり、非常に悲しく思う気持ちを禁じえなかった。
普段の生活から遠く離れた親族の死に、なぜにこう悲しみを感じるか。
一年の仕事を終え、机に向かうと、やはりそのことがアタマを離れず、年を越せば書けぬこととも思い、ついこれを書いた。
―逝く年も 迎うる年も 果てぬ旅
継続的な読者に感謝すると同時に、貴兄貴女らにとって良い年となることをお祈りします。