人間が言語を扱う生き物であることについて | JOKER.松永暢史のブログ

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人間が他の生き物と全く異なるところは、こうして改めてそれを用いて言うまでもなく、言語を用いるところである。

人間の子どもは、周囲の大人の話す言葉を聴き取り、およそ5歳に達するまでに言語によるコミュニケーションが可能になる。

我々は普段これを当然のこととして半ば忘却しているが、人間の子どもは相手の発声通りに、かなり細かい音の連続の声を出すことができる。これは猿の子にさせようとしてもできない。犬の子どもにもできない。亀の子どもにも鶴の子どもにもできない。だいいち親ができないのに子ができるわけがない。カラスが鳴くのは親が鳴くからであるが、人間の子どものように言葉を話すようにはならない。

人間とは言語の使用によって特殊発展した生物であると言える。言語は、伝達やコミュニケーションの他に、法や思想の形成の元となる役割を果たしている。あらゆる科学も言語なしには行い得ない。プログラミング言語を使おうが、コンピューターの世界内でも、そこにはすでに、あたかも細胞内にミトコンドリアがあるように、言語が入り込んでいる。いやそのベースとなっている。「文化」の元も言語である。

同一集団が用いている言語。その言語集団が発達するためには、自らの言語をより優れたものにし、それによって、適切な「法」を定めて集団全体の「契約」を作り、他の集団に先駆ける物を創造・開発し、そのことの生産によって、「外部」に進出・拡大していく必要があるのは明らか。つまり、同一集団の内部においてでも、あるいは外部との「交流」においてでも、そこで用いられる言語がより発展するように心がけることが、その集団の維持乃至は発展のために欠かせないということになる。

人間は、言語を用いる特殊な生き物で、そのことによってこの地球上での集団的発展を可能にした。だからこそ、言語的発達のための学習を後回しにすることは、結果的に「愚か」としか言いようがないことになる。そしてそのことがよく分かっていないから、教育の現状が改革できないのである。

教育上の問題は全て煮詰めていくと、当然のように言語の問題にたどり着く。しかし、その声をあげる者はまだ少ない。

高等言語教育の最たるものーそれは「会読」であるが、本夕のリベラルアーツは、『エピクロス』(岩波文庫)を読む予定。これを終えると、次は『無門関』を読んで、インド思想と中国思想の折衷理解と比較文化考察を行いたい。『臨済録』や『碧眼録』も参照する予定である。