「教育」とは、世の中の現状・未来をよくするために行うものであるはずである。
そして、「学ぶ」とは、自らの好奇心に従って追体験し、脳機能を高めることにほかならない。
どちらかと言えば、そのほぼ「反対」のことが行われているのが、「教育現場」の現状であることを視点にすれば、それは大きな「誤り」を持つものであり、その「教育」はやがて「雲散」する「宿命」にあると言える。
この「認識」は、特殊な直感的判断などによって行われるものなのかもしれないが、社会知識が不十分である子どもたちの中に、「直感的に」これを拒否する者たちが出てくるのも必然の現象であると言えよう。
「不登校」の根幹的要因は、やっている側は自覚的ではないが、それを受けている側にとって(多くの場合直感感性が鋭いものたちにとって)アタマに良くないことを強制されることに対する、「拒絶表明」である。そしてそれは、「つまらない」と表現される。
「直感認識」の能力を持たない「感性」の鈍き人たちが、「未来」が見える可能性が高い者たちを、自ら仕込まれた「既成の価値観」(「常識」)と「合わない」と言う理由で、また、自身の「立場」の保全のために、子どもたちにしてはならないことを「仕事」として「容認」して生きる。それは、生きていく上で仕方がないことなのかもしれないが、反面、「教師」と言う「聖職」を選んだ者としては「万死に値」することになってしまう。ゆえに、やがて、当然の如く、「衰滅」する、「存在」し得なくなる「宿命」にあると言える。
子どもが、心から、その成長を望んでいるのは明らかなことである。
それを無視して、いや気づかず、感じることができず、これを「抑圧」してや止むことがない。
自分の無自覚的に身についた「価値観」に適合するように、言うことを聞かせようと教育することが、どれほど教師としてあるまじきことであるか自覚化しない。ここでは、「権威」には、「徳性」が前提になることすら平気で無視されていることになる。
自分が生きているのは事実である。しかし、その食を喰むための「労働」が、未来社会構成者たちを絶望に陥らせる可能性があることに気づかないことはなんともいただけないことである。
子どもが「不登校」になるのは、現行の「教育」の有り様のせいに他ならない。どう考えてもそう言うことに帰結する。
「ホリエモン」こと、堀江貴文氏は、「現状教育は一旦解体する必要がある」と公言する。その通りである。でも氏は、それは不可能だから、オンラインを利用して、「正しい学校を作る」と言う。実に現状了解認識に優れた頼もしき発言であるが、しかし、その「認識」に到達した堀江氏の言語了解運用能力は、果たして、いかにして、いったい何を「きっかけ」にして「発動」したのか。まさか「オンライン」によってではあるまい。
アタマが良い人たちの言語機能の発達がいかにして齎されたのであるのか、我々が真に知りたいことはまさにそのことであるが、それは、ある種の高度な感性を持つ「人材」が、タモリ氏同様、たまたま繰り返し耳を傾ける音声言語利用上「正道」をいくものに接したからではないのか。そしてそれを、「識別」→「認識記憶」したからではないのか。
しかし、そんなことは、誰でもカタカムナを大声で正しく読んで、続けて『古今集仮名序』→『源氏物語』→『方丈記』→『徒然草』→『高砂』→西鶴・芭蕉と読むだけでほとんど済んでしまうことである。それだけで、それをした人の、日本語能力は本質的に高まる。なぜかと言うと、それこそが日本の戦後学校教育で、いったい誰が「主導」したのであろうか、「捨象」され続けてきたことなのであるから。
日本人のほとんどは、「日本国憲法」を正確に読むことができない。
できないようにする。
日本人の日本語能力を低める。
それがなんの「目的」のためであったのかは判然としない?が、日本人は「異国」に与えられた奇妙な日本語条文を、『古今集』伝統と全く関係ないことゆえ、これに対して音読理解しないで済まそうとしてきた。音読すれば、即座にこの文章が「日本語」ではないことがわかる。この「矛盾」が、日本語のすくよかな再発達を妨げた。結果、多くの日本人は、ハングルのみの強要の隣国人ほどではないが、言語文化の破壊の可能性に直面していることに自覚できてはない状態にあることになる。
英語より、ある意味、日本語の方が優れている。意味規定の苦手な日本語の方が、ある意味国際語的なフュージョンな可能性を持ったものとも言いうる。日本語には、究極的には言語で意味規定はできないというヴィトゲンシュタイン的「前提」があるように感じる。
ユダヤ人がアラブ人とうまくいかないのは、言語的超克を可能とする「作家」や「宗教者」が現れないからではないのか。『旧約聖書』や『クルアーン』を上回る発想と記述が現れないからではないのか。「文学」と「哲学」がそのことをサボり続けるからこそいつまでも「平和」が得られなくなっているとも言い得るのでもないか。しかしその裏には、いつものように、「経済的事情」があるらしい。
言語了解運用能力を高めること、それは、坊さん宮司以前に、古来からの音をより正確に発声しようとすることにある。
それは、日本語の、「一音一音性」の「古今伝授」の伝達に他ならない。
紫式部→長明・兼好→世阿弥→宗祇→貞徳・季吟→西鶴・芭蕉→一葉・紅葉
過去における言語的「天才」たちのやっていることは、日本語の一音一音性の「確認表明」であるとしか思われない。
そしてこれは学校では教えてくれないが、どの子どもにでも、やろうとしさえすればできると言うのが、「未来教育」への土壌を開いているとも言えるのである。
ヒフミヨイ マワリテメグル ムナヤコト
アウノスベシレ カタチサキ
ソラニモロケセ ユウェヌオヲ
ハエツヰネホン カタカムナ
これを一音一音切って唱えると誰でも日本語能力が高まると言うのはどう言うわけか。