「暇」と「奴隷」の関係について | JOKER.松永暢史のブログ

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AI発達中のコロナ禍で、労働の形態や意味がいよいよ大きく変わってきていると感じる。

古代ギリシアやローマの高い文化活動を可能にしたのは、「奴隷」の存在だった。食物生産労働を彼らに委ねたため、市民層は奴隷を調達する戦時以外は特にする必要があることがなかった。そしてそこに起こった余暇時間から、文学、哲学、芸術、建築などの幅広い創作構築活動が可能となった。ご存知の方も多いと思うが、スクールの語源と言われるギリシア語の「スコラ」は、そもそも「暇」の意味だった。何かを生み出すために必要なのは余暇時間と、そこで主体的に文化活動に参加することである。そして、「奴隷」とはそこに参加することができない人たちだった。

日本の江戸時代は、農民が食物生産を行い、武士が年貢を取り立てることで成立していたが、経済は商人の手にあった。戦争がないため、余暇時間を多く持つ人が現れ、文化活動も大きくなった。「祭り」も盛んに行われた。

明治以降も食糧生産は農民の手によって行われたが、農業技術の発達により生産性が高まった。さらに第2次大戦後は、農業の機械化が進み、一人の人間が管理することができる農地面積は大きく拡大した。今や農業はあらゆる農業機械なしには成り立たないが、それは人間の労働が楽になっているということである。

オンラインでの仕事が当たり前になると、通勤時間がなくなり、余暇時間が長くなる。しかし、余暇時間が長くなった時、多くの人は、他の人が用意してくれた娯楽や行楽にその時間を当てて消費するのが一般なのではなかろうか。

退屈で暇な余暇時間―つまり徒然の状態で、スポーツや肉体鍛錬、学問と芸術、文学と哲学、あるいはその他の、服飾・料理なども含めた自己向上的創作活動などを選択する人は幸いである。彼らは自由の意味を味わう、「奴隷」とは反対の立場の人たちである。人はたとえ労働はしても、そこに充分な余暇時間と自分のするべきことが見出せれば、「隷属状態」ではないのである。

余暇時間を自覚的に有意義に過ごすことーそれが「奴隷」ではないことである。

食物は農業機械が作る。もちろん人の手も必要であろうが、これは機械化のはるかに進んだ現代以前の状態とは大きく異なる。サバクトビバッタはいるが、人類は自分たちが必要な食料を充分に生産できる状態になっている。そんなことは、こんなにも食物が豊富な時代にお目にかかったことがないことからも明らかであろう。

もし逆に、仮に米だけを食べて生活するとすれば、月に2000円で生活できる。そうではなくとも、山村の空き家に1月5000円の家賃で住んで、電気代はかかるが水道代はほぼタダ、ご飯は薪で炊くからこれまた燃料代はタダ。ソーラーパネルを立てる手もある。近所からいらない野菜をもらって、繁期に農作業を手伝えば、それで生活費は月2万円以下で足りてしまう。そうは言っても、ガソリン代など個人で必要なお金もあるから、それはオンラインの仕事で稼いだりする。作ったものを売ることもある。

こうなると、家屋とその周りの土地の管理と薪割りくらいしかしなければならないことがない。当然暇になる。周りは騒音のない自然環境と空。音楽を行う。友達と集まってやる時もある。絵を描く。詩を書いて歌を歌う。そしてもっと全然別の「趣味」を思いつく。それをネットにアップする。そして同じことをしている友達が増える。彼らはほとんど税金も払う必要がない低収入自由人である。健康保険も安い。

こうした生活を選択する若者が増えてくる。都会に住んでいるなんてバカらしい。都会なんてたまに必要な時だけ行けばいい。必要なことはほとんどオンラインで済む。すると、将来そうした若者になるモードがある子どもたちに与えるべき能力とは何かということが問題になる。

余暇時間に「宿題」ではなく、自分のするべきことを見つけてそれを実践する能力。

創造的主体的活動。

それは「右へーならえ!」の学校教育が最も教えてこなかったことである。

また家でも、スイッチを入れれば楽しめる遊びが待っている。

ますますコンピューター世界が発達してくる中、本質が見えていない者の後悔は大きいものになることだろう。いやその「後悔」は認識されないものなのかもしれない。

ともあれ、ソクラテスは、「財産や社会的地位の獲得を第一義にして、個人の魂の最大限の向上可能性の追求を後回しにしてはならない」と語って死刑になった。

これはわかってはいけないことらしい。

そうでなければ、わかっても口にしてはならないことらしい。