「ウンコ」が出ちゃう前にトイレに駆け込むことと、我慢して出ちゃうことの違いについて | JOKER.松永暢史のブログ

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1日夜のリベラルアーツで、生徒たちと議論した。

―いかなる時代においても、第一に穀物・食料生産、第二に採鉱・建設労働、そしてその他の下部労働に従事する者がいるからこそそれが成り立っているという「事実」がある。そしてそれは現代社会においても同様である。世の中のために、自分がそんなにはしたくはない労働を忍耐して行い、そのストレス解消は他者に用意された娯楽ですます生活をする。そして明日の労働のために疲れを取るために就寝する。これの繰り返し。これはつまり、余暇時間に自分でするべきことを考えない、行えない状態ということで、というよりも、ギリシア市民に見られるように、余暇時間が、徹夜で飲んで議論しても差し支えがないような、かなり充分にある状態にならなければ、人間は「カルチャー」といった余計なことに進まないということになると想察できる。ここには、「退屈」と言うことへの深いダイアローグが同時に必要であろう。

 仏教の教えの前提は、出家して、まずは働かないことである。「乞食」になるのであるから、「労働」からは解放されている。そしてその余暇時間を瞑想に当てよということだった。

対して現行資本主義的社会では、労働者が、その忍耐の解消のためにスポーツ選手を罵倒する実態がある。野球、サッカー、相撲、そしてプロレス。皆その罵声を聞けば、その「正体」は明らかであろう。

そこには、ヘイトスピーチ同様、「命令」されたことに有無を言わさず従って働いたことへの「報復」がある。

ストレスの発生する忍耐を伴わない仕事。それは何か。

そして余暇時間を有効に過ごす「能力」。それは何か。

学校教育は、起立・礼・着席、前ヘーならえ、おまけに「ちいちゃいまいえーならえ」とかと、意味のないことでも命令通りに従う習慣づけを行ってくる。

それは言わば、「自分で考えるな」というに等しいことである。

しかし、今この国では、この国の未来を切り開き、そして支える新しいことを想起する人材が求められている。

そして人の人生は「90年」になった。

人は、「労働」だけではなく、それ以外の何かを遂行せんとする存在である。

自己の好奇心に基づいて、主体的に何かに着手し、そしてそれをやり遂げんとする存在である。

少なくとも、そのことの繰り返しを歩む人生を選択するべきである。

ここに、現行教育の理論的な矛盾点がある。

現行教育は、「悪くはしないから、『奴隷』に甘んぜよ」と諭す。

しかしそれでは「未来世界」に通じない。「未来市民」になれない。

「未来市民」が自ら発する能力を持つ存在であることは明らか。

現行教育は、「ニューロ・ダイバーシティ」をあらかじめ想定して生まれて来たと思われる子どもたちの能力伸長を逆に留め、対処「差別化」すらしている。

AI発達する未来社会が求めているのではない既成タイプの人材に無意味に「型ハメ」しようとしていることに自覚的でない。

本当につくづく愚かなことで、これをなおも継続連続しようと思うとは、「終わっちゃっている人たち」としか言いようがない。

わかっちゃいるけどやめられないのではあろうが、あんたたちのやっていることはみんな未来社会でAIにとって代わられてしまうことなのだよ。これからは「暗記」よりも「検索能力」の方が大切なんだよ。つまり自分から調べる能力が高いことが重要になっているんだよ。それは個々のその体質に相応しい「好奇心」に他ならないであろうが、それをつぶしているのが「現行教育」なのである。それがわからぬ教育は、未来社会にはみんなそんな悪いことに手を貸してご飯を食べたことは、60歳以降に取り返しのつかない反省と残機の念を持つことになること請け合いであると教えてあげたい。

「上」から「下」まで、子どもたちの成長を「犠牲」にして食を食む教育関係者たち。

これはひょっとすれば、「耕すことより、補助金をもらう方が楽」という発想と同様なのではないか。

農業同様、教育において、してはならないことがある。

それはその者が本来持つ「成長」と「収穫」を第一義に考えないこと。

それを、戦前の軍国教育よろしく、自分が職を失わないために、その「手先」になっていることに自覚的ではなくそれを行う「教育者」を、本当に哀れな存在だと認識・同情する。

以下省略するが、だから、現行教育は、論理的必然的に行き詰まる。

どうするか。必然的に「下痢」が襲ってくる状態で、あくまでその状態を保って堪えようとするのと、いっそのこととりあえず、それを、あたかも「ダムの放出」のように一度ブハッとトイレに捨ててしまおうとすることとのどちらが「正着」であろうか。でもそうしないと・・・・・、パンツの中に「ウンコ」が出てしまう「緊急事態」になってしまうのではないか。

以上、いささか汚いながら、このブログは「冗談」で記されているのが「前提」なので、現行自分の頭がマトモだとお信じになる方々は、早めにトイレに行くことを選択しつつ、そうはしなかった人がどーゆーことになってしまうのかご想像してお楽しみくだされたい。

リベラルアーツ『饗宴』は、ガンガン読み進んで、一気にソクラテスの弁説に入ったところで切った。

筆者は言う。筆者開発した「カタカムナ音読法」も、「サイコロ学習法」も、「作文法」も本当に物凄い効果を表すが、この「リベラルアーツ」ほど、生徒たちの能力が本質的に伸びるメソッドは他に見当たらない。江戸時代の会読も、旧制高校の寮での会読議論も、今様優れた大学のゼミで行われていることも、そしてかつて松下村塾、野山獄で吉田松陰が行ったことも、皆この能力開発メソッドだったのだと思い当たる。

優れた書物を会読して、より深く広い視野に立つことを可能にする。

学校教育でこれが行われないのはなぜか。

ウンコが出ちゃう前に考えるべきことなのか、それとも出ちゃったあとのことを想定して予めその対処を考えるべきことなのか、その決定は彼らの「腹具合」次第だと言うことになる。