「シンギュラリティ」が来るとは、次々に既成の価値判断が覆されるということである。
そこでは「予想」を越えることが現象する。そして、その現象によってそれまでの価値判断を覆さねばならなくなる。
その時、「あなたは、世の中が新しく変わったときに、それに対する対処と変容の準備ができていましたか?」とダイアローグすることが可能であるはずである。
未来適応的に必要になるのは、「持続的イノベーション」に期待して停滞することではなく、「破壊的イノベーション」を受け入れて自ら「変容」することであるはずである。
それは日本の学校教育の現場では可能か?
「コロナ禍」をきっかけに、学校が閉鎖されてそこにオンライン教育が始動した。このことは学校に行かなくても学べること、学校へ行く目的が学びではないことを暗示した。また、学校が再開されてそこへ戻ればその集団授業は相変わらず退屈であった。
「オンライン化」と言っても、全部が全部オンライン化するのではない。その方が好都合である部分をオンラン化して行くのである。
USAでは、これを「ブレンディッド・ラーニング」と呼び、すでに多くの成果を上げながら発達しているというが、筆者は日本では当面実現不可能だと思う。
日本人は、持続的イノベーションへの期待を捨て切れず、多くの「犠牲者」(子どもの)を出しながら、時代が進んでいよいよ破壊的イノベーションに従わざるを得ない状況になってから「変容」しようとするのであり、前もって自ら変わることはできないお国柄である。それがこの国の「運命」なのである。
筆者が想い描く理想的な「ブレンディッド・ラーニング」の実際とは何か。それはこれから大きく改善されるであろうが基本的な提案は以下のようである。
朝、オンラインで全員の無事を一斉確認する。家にいる状態のままであるから、生徒の状況は学校へ来ているときより正確につかめる。
A・Iによって、各人がするべき学習プログラムが提示「される。これは本人の進展レベルに合っているものが与えられる。理解のために視聴するべきオンライン講義も案内される。そこでは非常に説明のうまい講師たちによる授業を受けることができる。
ここで、本人の意向など、学校へ来ないとできないことがある場合、あるいはグループ学習が必要な場合、登校時間を決定する。
国語、数学、英語、場合によっては理科は、必修とし、各々自分の習熟度に合わせた学習が可能なプログラムが組まれる。
その他、学校に来たい者は、学校の機器を使って学んだり、先生から直接学ぶことも可能。音楽室やスポーツ施設を使うことも自由。
週に1度は全体ミーティングのために学校に集まる。もちろんこの参加が嫌なものはオンラインでやることも可能だ。その他少人数で行うディスカッションやセミナーのために集まることが可能だ。こうして学校はオンラインで繋がる「アゴラ」化する。
極めて短絡的ではあるが、おおよそこうしたことが起るとすればどうなるのか。
これまでの教師による一方通行的授業や、全体訓練がなくなり(あるいは減少し)、教師の仕事はファシリテーターあるいはカウンセラーといった仕事に比重が移るので、このことに対応変化できない教師は職を失うことになる。
そこではこれまでの学校形態と完全に異なる未来型の教育イノベーションが起るのであり、多くの人が始めるのを待つといった我が国の様子見対処的国民性は、加速するシンギュラリティの波に耐えることはできないだろう。
この我が国既成の、恐ろしく意味のない教育を受けることを当たり前だと思いこまされている、完全に「洗脳」されている人たち、大人しく言うことを聞いて、テストのために暗記学習をし、提出物をきちんと出して、良い成績評価をもらうと、上級労働者への道が開けると教育された人たち、その代表の一つであった教員資格試験通過者たちが、それまで自らの苦労して獲得したものの多くが保古になることなんて受け入れられるはずがない。先進変化するアメリカ社会であるからこそ可能であることが、バブル崩壊以降、「持続」こそが目的化している我が国で可能とは到底思われない。ゆえに、今流行の、本格的な危機管理の能力がないために、そうした者たちが構成する組織そのものが腐敗して不毛化して存在の意味を完全に失うことになる可能性が高い。
そこでは「不登校」ではなく、「学校忌避」が起るのである。
それに対して、何とかするのではなく、何とかなるのを待つ指導者たちが、何もできないことも想像に難くない。
終戦直後の時のように、「洗脳」が解けた瞬間の人々はかえって混乱すること必至である。
文科省も、「放送大学」のシステムは構築できたが、小中学校の「オンライン学校」化への変化構築はできないはずである。経産省の真似をして、電通さまなどに丸投げするのが最善と考えるのかもしれない。
この「危機」は実に大きいはずであるが、今のところ全く対処できていない。だから、単に管理がゆるんだ状態を演出するしかない。
すると、「犠牲」になるのは、そのことに気づいて対処することができないご家庭の子どもたちで、その基礎学力の未来的不備ということになる。しかしそれは、これまで「冗談」で考察して来た通り、体制側にとって「有利」なものとして容認されるのがこの国の教育の特質であることは言うまでもない。
「バカ」が指導者になるには、その支持者を『バカ』にしておく必要がある。
それは教育の真逆である。