先週末に10冊ほど本をまとめ買いしたので、まるで多数のスナック菓子を買い込んだ子どものようにどの袋も封を切って食べ散らかしている。
その中に、ホビット村・Nawa・プラサート書店からの紹介で購入した『全記録スワノセ第4世界—日本のヒッピームーブメント』(塩澤幸登著/河出書房新社)というのがある。
何度か書いたこともあるが、読者は約半世紀前に「学生運動」というものが盛んになった時代があったことをご存知か。
1972年、筆者が「受験勉強」を終了して都立西高に入学すると、そこは学生運動が終わった直後の不思議な世界だった。
何と言うか緊張感がない。先生はうるさくない。生徒をほったらかしにして敢て干渉しない風情。校則がない。生徒の自主性に任せるとのこと。学生運動の嵐が去って、「シラケ」という言葉が流行る時代だった。14歳の筆者を「開眼」させた富澤進平は、髭もじゃのノンポリだった。
こうなると、一部のストイックな生徒以外は自由を満喫して猛烈にやりたいことをするようになる。
今考えると信じられないことかもしれないが、クラブ活動はもとより、政治活動、演劇活動、音楽活動、学園祭活動、体育祭活動を初めとして、我々「不良」としては、飲酒、喫煙、賭け麻雀、パチンコと、大人がやることを平気でしたものだった。
「闘争」が鎮まると「文化」が起る。それは第2次大戦後に起ったことがもう一度若者の手によって行われている世情の姿だった。
1969年に東大安田講堂が落ちて東大入試がなくなり、政府文部省は、東大など国立大学進学には多教科の「共通一次試験」、後のセンター試験に繋がる選抜試験システムを導入することを決めた。これは76年から「試行段階」に入り、78年から正式に導入されることになった。文科省は学生の受験勉強を忙しくする、しかも知識吸収に偏重する試験を行うことによって、多くの生徒に難しい思想に興味を持つ余裕を持てないようにしたのだった。そして世は、「高度成長期」に突入して行った。それは「勤勉従順」な労働者によって支えられた。戦争でひどい目を経験した一般日本人は、「思想」よりも「経済」を優先するという当然の「選択」をしたのである。
しかし、感性に鋭敏な者たちは、この政府権力によって粉々にされた学生運動に参加した者たちや、一般社会に適応(隷従)できた者たちとは異なった「選択」を行った。
それが、「ビート」であり、それに続く「ヒッピー・ムーブメント」である。
1973年、16歳の筆者は、「自殺」を考えていた。
でもそれができない「結果」が哲学科進学であった。
卒論指導担当の大学教官は尋ねた。
「何をテーマにするつもりか?」
—西海岸ヒッピーと禅とチベット仏教の関係について
「キミは来る学校を間違えている。その指導ができる人間は慶応にはいない。そもそも福沢先生は、西洋の文化を伝えるためにこの学校を作ったのだ」
来る大学を間違えていた。
こうして、筆者は、一方すでに準備にあったユーラシア横断踏査の旅に出るのである。
本に触発されてなぜか、余計なことを書き始めた。これは続けると長くなるからまた別の機会にしたいと思う。
旅の帰国後、その体験から「ヒッピー」たちの選択が「正しい」ことを哲学的に確認するが、その人たちがどうして湧いて出たのかを考察することは、絶えることない自分の「趣味」である。
自分は「ヒッピー的」ではあるが、「ヒッピー」ではなかった。「体制」におもねることはなかったが、それ以外の選択をした「者」だった。
「スワノセ」に集まった「部族」たちの記録を映画に収めたのは上野圭一氏であり、この本は、その人についての記述を行うことが主体であるが、読んで、上野氏が中野育ちの都立西高出身(本人は「最悪」の学校と認識)であったことを知って、「戦争被害者」の父親を持つ世代に共通するものを垣間見る思いがした。
その後、筆者の興味は、さらにそのことを包む「芸術活動」をする者たちに拡大して行くのであった。
そしてそこで、実に大きな体験をする。それは「哲学」と「芸術」を均等に見ることだったかもしれない。
最近、歳とともに、そのことを書き残すのが自分の仕事ではないかと繰り返し思う自分がいる。
昔読んだ埴谷雄高氏は言う。
「死者に向って書く」と。
「エネルギー」には限界がある。
すでに多くの人たちが他界している。
いつ死んでもかまわないが、死ぬ前に自分しかできないことをしておきたい自分がいることは確かだ。