あらためて思う。
子どもたちにとって、アタマが良くなっている実感が伴わない学習は無意味である。
そこでは単に我慢して働く習慣性の付与が行われるだけである。
でもそれが続けられるのは、そのことによって喰い続ける人たちのためであり、当然彼らも自分がしていることの無意味性の認識は捨象している。
「教師」—この社会的「資格」を伴う職業は、逆にその「資格」の遂行ゆえに、無意味化する。
いや、無意味化せざるを得ない時代がやって来てしまっている。
教師←管理職←教育委員会←その上部組織←文科省←教育産業←東大教育学部とセンター試験事務局←経団連経済界←学歴的ヒエラルキーの頂点集合。そして、それが「当然」であると洗脳された「社会的常識」。
もはや、この国の教育の場は、「すでに成績が優秀であった者たちの支配肯定の場」になり切っている。
そこでは世の中が圧倒的に変わっていることに無自覚であることを装うことが横行している。
子どもたちがモロに接するところの吉本興業芸人と学校教師人の圧倒的な「差」は何であるのか?
ウケようとすることに知恵を絞る集団と、黙って言うことを聞かせることを目的とする集団の真逆さ。
このどちらの実行に真の知恵が要るのか?
すでに教育産業がいくらでも良いソフトを作ることが可能な「現実」。
教える能力の意味が、これまでよりさらに「変遷」「変換」されようとしている。
ここでは、単なる「情報の伝達」は、機械化されつつあるのである。
では、「教師」は本当に要らないのか。
それは即座に否定されよう。
なぜかと言えば、そこに、やはり賢い大人、ならびに子どもが賢くなる可能性を追求していることを直感・認識・容認できる大人がいなければ、子どもの能力は発生顕現連続しないことになるからである。
ということは、何らかの形で子どもを啓発しない教育者は、すべて「教師」とは言えない存在であることになる。
でもそんなことが、それを知らずにそれを選んで「教職」に就いた者たちにわかるはずもない。
「洗脳」ではなくて「啓発」。
それが捨象されたところに「教育」は成立しない。