人はなぜ大学に行こうとするのか。
そこには自覚的非自覚的に多くの理由があることだろう。
一般には、社会に出て食べて行くための技術や専門知識の獲得、あるいは安定した企業への就職の「資格」を得るためという人が多いと思われる。また他の人たちがそうしているので自分もそうした方が得であるという庶民的判断もそこにはあることだろう。もちろん、自己の好奇心に基づいた対象を究めたいという健全な考え方の人もいるだろうが、これは少数であろう。
多くの人は大学に専門分野の研究のために行くのではない。しかし大学は、専門分野を学ぶ所である。
専門分野を学ぶためには、専門書が読めて、専門家の話が聴けて、自分の考察結果を文章化する能力が欠かせない。
しかし、18歳でその状態に到達している学生は1割にも満たないことだろう。ここに大学入試と大学教育の大きな矛盾点がある。
産業界の方では、絶えず新しい人材を求めている。だが18歳ではまだガキである。でも22歳になれば少しは「大人」である。難しい話も理解できるようになっているはずだし、少しは本も読めるようになっているかもしれない。いかな企業でも管理職候補として採用する者が、文書を読むことや文書で答えることができない者であることはありえない。だが、大学を経て22歳になっていれば多少はそれができるようになっていてもおかしくない。「卒論」だってあるはずだ。その辺に「妥協点」があるのか。でももし大学院に進んで一枚上の知性を身につけた場合、そんな者を企業は欲しがらない。欲しいのは知性というより単に読み書きの能力のある労働者である。つまり、やや乱暴であるが、一般に大学とは、企業が求める読み書きレベルができる人材を育成している機関ということになろうか。そして、そんなことは自分で本を読んで自分で文章を書いていれば自然と到達する事柄である。逆に、もし自分で本を読んで自分で文章を書いているのであれば、大学としても申し分のない入学者ということになる。
しかし、そんな者は10%にも満たない。早稲田や慶応と言った一応トップレベルと思われる大学であっても、小論文の試験を課さなければ、暗記学習こそ我慢してすれ、本を読んで自分で考えたことが文章化できるようになっている入学者は少数だろう。他の私立大も文章記述型の入試をすれば、受験者は減るし採点には手間がかかるから、予備校に丸投げマークシートなんていうところも出てくる。この背後には、入試の手間は予備校に任せて受験者から集めた受験料との利ざやを稼ぐという発想が透けて見えている。でもね、もし記述解答試験を課せば、ほとんどの者が無解答になってしまい「試験」の意味がなくなってしまうから、結局、そもそも大学で勉強する基礎能力がない人たちを入学させて入学金と授業料と寄付金を取ることが目的であるから、試験なんて形式的なものでかまわない。
そして、学者の話が聴けない者には、インチキ教養課程で分かりやすい「教養」を通じて少しは読み書きの能力を伸ばしてやるしかない。とまあこういう結論になるのか。
でもね、大学入試をかくのごとき形にすることを決定しているところは、いったい私立大学内のどこで、そこに集まっている人たちはいったいどんな人たちであるのかを知らなければこの答えは出ないかもしれない。
この項連続的に書く予定。