大学入試システム改革が「座礁」しかかっている。
問題点は眼目の記述解答試験の導入を巡ってである。
英語試験は先送りが決定し、各大学から利用しないという意見も出ている。
国語記述試験においては、その公平な採点が期待できないという声が多く、その導入をやめるか、問題の簡易化が図られている。
初めから民間移行の考えがあって、このシステム改革が想起されたとは思わない。
我が国の教育に産業界の意向が強く働くのは周知のことである。
「産業界」というのか「経済界」というのかはたまた「経団連」というのかわからないが、我が国の企業組織では、新しいことを行う高度なリーダー的人材や創造性豊かな優れたイノベーターが決定的に不足して来ている。
かつてそれを供給して来たのは、東大や京大といった国立大学のトップであったが、これらの大学にそうした人材が集まらなくなってしまった。
東大に必要以上の努力をしないで進学した超優秀君たちは、学術の世界などで活躍する人が多く含まれていることだろう。では東大に入るために、小学中学年から塾に通い、鉄緑会などの塾にも通いながら進学校でのキツい授業に耐え、大学入試のために、センター用に英数国理社の暗記型の勉強に備え、その上で二次試験のために英数国理(社)の記述型試験に対応するのはいささか大変な労力いや時間の浪費である。その間彼らは、人間性を豊かにすることは脇に置いて、ただひたすら試験で良い成績を収めるための学習ばかりをさせられて育つ。なんでか。それは安定した生活のため?いや、単なる生活の安定を目指すなら、他にいくらでも道がある。もしその人が貧しい境遇に育ったのなら、学問によって出世して親に楽をさせたいと思って頑張ることはあり得る。しかし、実際に東大に入学するものの大半は、首都圏の私立中高一貫校生たちである。つまり、割とおカネがある層がさらにその上を目指して勉学に打ち込むことになるのか。しかし、それは何を目的に?安定の上の生活、それはリッチネスであろうが、それはこの資本主義社会ではビジネスによって獲得するものであることは明らか。そこで学歴ある者が目指すべき小リッチ点の一つは、最後まで真面目に勤め上げることで得られる、「天下り」でしかないことになる。50歳前に、退職金をもらって役所を辞めて、特殊法人などの役員職を得る。年収約2000万くらいか、これを2〜3年勤めて5000万円くらいの退職金を手にし、また別の、あるいは関連の企業や法人に再就職する。こうして、老後のための3億ぐらいのお金を確実に確保する。実は厚生年金も受給するので、そのお金はしばらく小リッチな生活をすることに当てられる。我慢して来た人生の最後でその祝福を受ける。別荘も建てられる。夫婦で海外旅行にも出かけられる。善也善也。かなり乱暴だが、こんな感じであろうか。
しかし、本当にこのようなことが勉学の動機の柱であった場合、それはかなりつまらない人間になることを目指すことを暗示する。つまり、オモロいことをあまり思いつけない。というよりそんなことにアタマを使う必要がない。使うべきは自分の出世と地位安定のために、ミスをしないように注意することと、上の意向を確実に忖度して見せることだ。
こうして、官僚の世界でも大企業の中でも、東大卒の優秀者が、いや「有能者」がどんどん足りなくなって来る。
それはなぜか?
彼らの中にもその原因がわかった者が出たに違いないが、それは大学入試システムが悪いからである。
大学入試システムが現状のようになったのは、今から40年前の1979年に、後にセンター試験となる、大学進学共通第一次試験が始まってからである。これは名目上、「受験地獄の緩和のため」とはなっているが、実際は学生の能力を歪めることになる政策だった。
長くなってしまった。実際にこのことを書くと、60年代後半の学生運動の背後にあったものと、そこに行われたはずの教育政策と、さらにはそこにぶつかった高度成長の様相を、拙い教養で書き切らなければならない。どこかにこのことを書いた本はないものか。
一言で片付けることはとてもできないが、高大接続システム改革が始められた本当の理由は、東大などに人材が集まらなくなったから。そしてそれは、面接・小論文型の慶応SFCの選抜方式が正しいことを意味した。
大学とは、専門家の話を聴いて理解し、彼らが提示するテキストを読みこなし、その上で自分の考察結果を小論文化することができることが前提の高等教育機関である。でも18歳でその能力を持つように成長する学生は10%にも満たない。それは、共通テストの試行試験結果に如実に現れている。結果、我が国では記述解答試験を取り入れると上位30%くらいを仕分けする試験になってしまうのである。だから、残り70%受験生からも学校からも苦情が出る。
結果的に、記述式試験を全体的に行うことはナンセンスと言うことになってしまう。記述試験なら面接同様、少人数乃至は個別に近い形でやることが正しいことになる。
すると、国家がやろうが、業者がやろうが、記述式の全体試験は、採点ができるA・Iでも発達しない限り無理であり、しかもその受験対象者は限定されることになり、それでももし全体テストを行うなら、元通りの選択肢マーク試験にするしかないことになる。
業者に任せたということは、そこに利益が生じることであり、その利益の元は受験者である。
そのための全体試験?いや、企業に任せるのは文科省下の特殊法人ということになるだろう。
そして、その文科省には天下りを目指す東大卒がうようよいることはこれまでの経緯からも丸見え。
さて、ではそれでは、記述式試験に無関係の、上位ではない90%を引き受ける私立大学では、どのような入学試験をして、どのような教育を施しているのだろうか。