やはり小学生との合宿はキツかった。
小学生の相手には知的なエネルギーよりも身体や気合いと言った種のエネルギーの浪費が求められる。
子どもと遊んだあとの疲れ。それは爽やかなものではあるが、大きな休息を求めたくなる何かがそこにある。
不要な環境音と情報がない自然環境に囲まれた古民家で、小学校高学年を集めて集団生活する。
朝4時半に起床して、朝食→瞑想→自己学習で12時まで。昼食後川遊び→3時おやつ→作文大会。17時焚火バーベキュー→夕食→太鼓大会兼シャワー→就寝(20:30)。
学習時間が決まっているのだから、ほれ幸いと塾や学校の宿題などをどんどんこなしていく生徒がいる一方で、半分くらいの生徒は、じっと机に向っていることができない。机に向っていても、そこで何かを身につけるようには学習していないか、ボケッと他のことを考えたりしている。中には他の人が集中しているところへ近づいてその邪魔になることをしたりする子もいる。虫などが出た時に、過度に騒いで集中を妨げる者もいる。
そして、こうした合宿に参加していることの意味を全然分からないと思われる子どもたちを見ていると、なぜかそれを見守る教師たちに起る心の中の言葉がある。それは、「自分もおおよそそんなものだった」というものである。
平和で安全で不足のない生活をする子どもたちに、自らの未来に備えてここでするべき努力をすることによって人生に前向きに賢く立ち向かうことを伝えることは無理がある。彼らは、自らの甘えとわがまま同様、14歳以降までそのことに気がつけない。小学生には中学生には通じうるかもしれないものが、全く通じない。しかし、それは自らを顧みれば当たり前のことであった。
しかし、それよりも何よりも、10人程度の男子が集まって共同生活することには実に学びが多かったと思う。
彼らはヒマさえあれば、ふざけ合い、じゃれ合い、もつれ合い、突っつき合い、言い合い、笑い合う。これはいかなる先住民の男の子の集団でもこうなることが想像された。彼らはすぐに相撲や格闘技もどきを行い、走り回り逃げ回る。川へ行けばすぐに「探検隊」が結成され、「命がけ」の協力に自然に参加する。そしてそのことは振り返ると実に楽しいことであるらしいのだ。
事件も頻発する。ものもなくなる。置きっぱなし、お茶をこぼして汚したまま逃げる者もある。しかしなぜか彼らはまるで解放された鳥たちのように自由に飛び回る。その理由は、そこに「女子」がいないからに違いない。女子がいればこの動きはない。男同士だからこそ気にせずもつれ合うことが可能なのである。
最終日に、合宿について作文を書いてもらったが、その中に、「女子がいないので下ネタが自由に口に出せて良かった」というのがあった。彼らの「下ネタ」とは、「ウンコ」、「チンコ」の類いであるが、これすらもふだん女子がいるとできないと言うのは面白い。
小学生相手の合宿は疲れる。でも教育作家として、他の誰もができない経験と観察をものした実感がある。小学男子は混ざることに意味があるのだ。
10日のリベラル上級は『孟子』を読み始めた。17日は初級で、引き続き『論語』を読み進む予定。なを8月はこの2回のみ。