映画『新聞記者』を観たのでその感想をざっと記す。
これを観たのはその撮り方を観るためではなく、その「編集」された内容を知るためであったのだが、その「内容」は一種の「情報」だった。
内調(内閣情報調査室)は、主に警察官僚を主体とした複数省からの出向者を集めて組織され、彼らはコンピューターに向って情報を集め、ツイッターなどを使ってガセ情報を流し、時には特殊情報を新聞に「リーク」させる「仕事」も行っている。もちろんそのトップは毎日のように首相に会う。そんなことはここのところの国会の様子などで充分予想可能になっていたとは思うが、優秀な官僚を使ってこうしたことが行われていることを覗き観ることは、何とも言えない暗い気分を催させる。
権力者にとって、国民はコントロールすべき存在である。
そのためには自分たちに不利な情報を流すことは禁じなければならない。
もしくはその情報を根拠のない「誤報」の可能性があるものだとしてしまう必要がある。
発言する者への社会的な中傷も行う必要がある。
その仕事をさせられているのがエリート中のエリートである若手官僚である。
新聞記者よりも取材対象者たちの立場の方が悲劇である。
この映画では、新設大学設置には隠された計画があることが示唆されるが、ふだん我々には、メディアに圧力がかかることによって、そうした実態を知ることができなくなっていることを再確認できる。
これを観ると、どんな人でも、たとえ優秀でも官僚にだけはなるまいと思ってしまうことだろう。いや、新聞記者も同様かもしれない。
内調役人は、これを「情報操作」するためには、まずこれを観なければならないはずである。するとそこにむしろ「共感」のようなものが生まれてしまうのではないか。そのことによって生じる「ストレス」は喩えようもなく大きいことだろう。いや官僚たちこそ、「よくやってくれた。ざまあみろ」と思うのであれば最悪の事態である。
菅官房長官は、「これは明らかにフィクション。しかも荒唐無稽の」と一笑に付すであろうが、自民党優位の地域の映画館では上映禁止圧力が当然の政策ということになると思われた。
その他多くのことを考えさせられたが、このパフォーマンスを実行するには、熱意だけではなく、並々ならぬ「智慧」が必要だと思った。