新月過ぎて大雨降って近地点過ぎてまた雨が降る。
ここのところ、新刊書執筆のための思索を繰り返しているが、未だに本格的に文章化できていない。
先週は、試験中の生徒もいたりして忙しかった。新規の教育相談やメールも多い。
しかしもう始めないわけにはいかない。
だいたいからどんなものができ上がるかわからないで作るところが面白いのである。
「兄弟のいない一人息子の育て方」—これについて書くには、様々な要素をよく考察する必要がある。
その中で、「不登校」「ひきこもり」といった事例についてこれを考察していくと、その結果、必然的に、「学校とは何か?」というダイアローグが起ってくる。そしてこの考察を行うと、とどのつまり、「学校で学ぶこととは何なのか?」というダイアローグが起ってくる。また、「では、そもそも学ぶこととはどのようなことか?」といったダイアローグも起ってくる。そして読者の望むのは、そんな考察課程などではなく、子どもをよりよく育てるために、どうしたらその「学校」を有効利用できるのかということなのではないか。だとするとそこに、「子どもをよりよく育てるとはどういうことか?」というダイアローグが起ってくる。
学校とは、昼間親が働いている間に、子どもを預かって、日本人としての集団行動を学ばせるところである。もちろん同時に、様々な教科の学習が与えられるところでもある。この集団行動か学習内容のどちらかがイヤになると不登校になる。学習内容は、家庭でも補填できるが、集団行動は家庭では学習できない。
では、集団行動は是か非か。これは明らかに是である。
人間は人から学ぶ。他人との接触によって学ぶ。
他の人間との接触体験こそが学びである。
そして、その体験のためには、できるだけ多くの同時代者と近しく出会って関係することが必要になる。
「他者」が自然である場合もあるが、人が他者との関わり合いによって学ぶことは明らか。
すると学校は、同世代の他者との接触のために行くところということになる。
つまり、他者との関わり合いの中で自分の可能性に目覚めていくところが学校ということになる。
この視点で行けば、世の中そのものが「学校」である。
そして、小学校高学年時に、同世代者とのできるだけ多くの接触体験=遊びがあることが極めて重要であることも説明できることになる。
こんなことグダグダと書いていないでとっとと執筆を始めるべきかもしれない。
だが、今日も4件の授業・相談がある。
雨も降っている。