学校教師にとって運動会はその本質的な仕事の一つであろう。統率—全体に言うことを聞かせて指示を守らせる。考えて見れば、教師にとって大変ではあるが、これほど気分の良い仕事はないかもしれない。そしてその意識は、「平常点縛り」の利用を加速させる。運動会で言うことを聞かせることができたのだから、それを教室の授業にも効能させよう。こう考えるに違いない。
おバカな中3男子が、競争中に揃ってでんぐり返しをするという思い出作りのパフォーマンス。当然先生に叱られるが、その言葉が「お前たちはどうして人の気分が悪くなることをするんだ」。「バカ!」とでも一言言うのが相応しいが、なぜこんな意味深な言い方になるのか。
GW中もクラブ活動が忙し過ぎてフラフラな上に運動会のダブルパンチで苦しむ中2生の母親に運動会の会場で会って、他の母親たちの前で、「お宅のお子さんは提出物はきちんと出さないし、補習にも来ないのでもうダメです」と言う。これは内申点をあげないという意味に近い。実はこの教師のやたら指示と課題が多い教え方が合わないのでその教科が伸び悩んでいるというのに。しかも最近は提出物も出しているのに。補習はクラブで出られない。
前にも書いた通り、公立中の問題は、システムにその原因があるのであるが、教員養成大学にも問題がある。
平常点という魔法の杖を握り、運動会で全体統率を行い、本当は不可能なはずの学級運営を乗り越えて行かねばならない仕事の大変さはよくわかる。しかし、その魔法の杖は、使い過ぎると劣化する。使う者の尊厳を破壊する。そして最も大切な教師と生徒の信頼関係が消滅する。刑吏と受刑者の関係に近くなる。そこにあるのは檻があるかないかの違いである。
仕方なしに平常点を使うのではない。もはやそれにふんぞり返って、大切な子どもたちを刑吏のような目で見る。あるいは、家畜の群れように見る。そしてそれに自覚的でない言動をする。こうした状態は危険である。自立心旺盛な反抗期の男の子たちを細かく厳しい管理の元に置こうとし過ぎること。細かいチェックを繰り返し過ぎること。あくまでシステムが悪いことの結果であるが、筆者は「事件」の予感を感ずる。男の子たちよ、むやみな感情に流されるな。教師たちよ、平常点にあぐらをかいた言動を慎め。自覚的になれ。「暴発」が起きないように注意が必要である。しかしそれは力で制圧するものではない。知恵によって改革していくべきものである。