文化の全体レベルを上げたくない潜在意識について | JOKER.松永暢史のブログ

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別になにも天皇制に導かれるわけではないが、「日本人」(大陸東海温帯モンスーン列島地域に住み、日本語を話す人たち)なら、誰もが皆この地域の文化が栄えることを望むことだろう。

自分たちの住む地域の文化レベルを上げたい。

これはほぼ人類全体の歴史的な欲求である。

文化の要素として、主として、思想、学問、科学、技術、芸術などが考えられるが、これら全体のレベルを引き上げるとは、それらを産み出す基となる高等教育機関=「大学」のレベルを上げることとほぼ異ならないことだと思う。

よって、政府も国民も、日本人の文化が栄えることを願う者は皆、大学のレベルを上げようとすることになる。

大学のレベルを上げたいーこう願う時に、二つの考え方がある。

一つは最先端部だけに優れた人が出れば充分であるという考え方、もう一つは全体レベルを押し上げることにより、最先端部で活動する人の割合を大きくしていこうという考え方。

前者は、能力の高いものが陥りがちな考えであるが、それは間違っていると思う。いや「古い」と思う。

なぜなら、優れた創造も、優れた研究も、そして優れた構築も、今やほとんど皆、複数の人間のコラボレーションから成立するものであるからであり、またそもそも「文化」とは全体のことを評して言う言葉だからである。「文化」とは、その厚みをも意味する。それを支える人たちが多くなければ成立しないものである。文化レベルを上げたいと思うならば、「上」を産み出す工夫よりも、全体レベルが上がることによって上の層が厚くなり、そこから優れた研究や発見や創造が生まれるようにしようと考えるべきである。

しかし、全体レベルを上げるとは、そこにクリティカル・シンキングを身につけた人が多くなるということにも繋がるから、世を自分たちの思いのままに動かそう(維持しよう)と思う人たちには不都合なことになる。逆に、自分で考えない人、人の言ったことを鵜呑みにする人たち、すぐに信じて疑うことをしない人たち、世の流れに身を任す人たちが多く存在すれば、メディアコントロールなどを用いて対処することができると考えることだろう。

学校教育が変わらないことの根底にはこうしたことがあるような気がしてならない。

全体がアホでも、部分が聡明であれば良いという考え方。

そこには、文化の全体レベルが上がらないように願う、「既得権益」的潜在意識がある。

だから、「矛盾」が拡大する。

そして、学校がつまらない子どもたちは苦しくなって、テレビ、ゲーム、スマホに走る。

かくして、経済のことだけを考える為政者の思い通りに、文化の全体レベルは低下し続ける。

低下し続ける文化は、やがて消滅する運命にある。「日本語」がなくなっていく。

誰が望むかそんなこと。