相変わらず「LD」などの相談に追われているが、多くはWISKなどの診断結果にショックを受けてのものである。
人間はできない体の動かし方がだんだんできるようになる存在である。
寝返りを打って、ハイハイして、直立して歩き、走り、跳び、しまいには木に登れるようにもなるが、考えて見ればそれはサルでもできることだった。
手も同様、指も同様、人間はだんだんいろいろな動きができるようになって成長する。
アタマの使い方についても当然同じことが言える。いや、「もっと」と言うべきかも知れない。
したがって、諸処の試験結果は、その時点のものであり決定的ではない。
特に「言語能力」と言う項目については、筆者のもとでカタカムナ音読を学び、作文法を学んだ子どもたちが、皆国語力を増強することからも、「その時点の」と言う断り書きをつけることは忘れてはならないと思う。
パズル同様、サイコロ同様。
学習とはアタマのある使い方を良くしていくものである。
そして教育とは子どものアタマを良くしていくことである。
子どもたちは変わった。
変わって生まれて来た。
それはおそらく本能的に未来社会に適応するために。
少子核家族化都市生活の中で、それまで兄弟やトモダチと切瑳琢磨することで伸ばされている能力が顕在化しないことも大きいと思われるが、既成の判断基準で今の新しい子どもたちを測定判断しようとすることは、必ず部分に矛盾を含むことになる。
自分たちこそ「マトモ」であるという思い込みの根拠はいったい何なのか。
まさか、「哲学」の不足、哲学的能力の数値が低いからではあるまいな。
なんちゃって。